未来予測について、決定論が正しいのか、あるいは確率論・統計的にしか未来は予測できないのか考えてみます。
今までの常識的な考え方では、一定の条件がわかれば未来を予測することができると考えられてきました。
古典的な因果関係、決定論でないと精密な科学になりえないのだという考え方が古い時代からあったわけです。
例えば、120qの距離がある目的地まで、時速60qで走り続ければ、
距離(120q)÷速度(60q)=2時間
となります。一定の条件(この場合は距離と速度)がわかると未来が決定論としてわかるわけです。
ところが素粒子論が発展するにつれて、我々が常識として考えていたことが、本当に不変性があるような常識だったのであろうかという疑問がでてきたわけです。
素粒子の世界では、確率解釈・統計的な意味での因果律になってしまい、昔の因果関係が成り立たなくなります。ということは、非決定性になってしまうということです。
非決定論がはっきり現れるのは放射線・放射能の問題だと思います。
例えば、ラジウムの原子がたくさんあるとします。これらはすべて同じ状態だと考えます。
ある原子は早く崩壊し、また別の原子は長い間生き残っているわけですが、全体的でみますと統計的には指数的に放射能が減少していきます。
ただし、原子を一つ一つ見ていきますと、どれが早くどれが遅く崩壊するかは、まったくわかりません。
実際には崩壊する原子の数で表されますからヒストグラム的に減っていきます。これは統計的ですし、非決定的です。
物理講義 湯川秀樹 参照
これを極端にしたのがシュレーデンガーの猫です。
どういうものかといいますと、箱の中に猫と実験装置が入っています。
仮に放射性元素が約15分前後で崩壊をおこすとしますと、ガイガーカウンターが検出してリレーを動かし、連動するハンマーによって青酸ガスの瓶が割られて猫が死んでしまうという実験です。
見ること(観測)が物の状態を変えてしまうという量子力学の考え方(不確定性原理)に従うと、猫は15分後に観測窓を開けて中を見るまで、生きている状態と死んでいる状態が半々に入り混じった確率の雲のような状態(重ね合わせ)で存在していることになります。
観測した瞬間に、生きている状態か死んでいる状態のどちらかの確率が大きくなって猫の状態が、(観測したことによって)決定(波の収縮)されます。
生きている猫なのか、死んでいる猫なのかが決定します。
しかし、観測した時に初めて猫の生死が確定するということは、その情報が感覚器官を通して、人間の意識に到達した段階でしかありえないということになってしまいます。
いままでの常識的?な考え方からすると、人間が観測しようが観測しまいが、猫は生きているか死んでいるかのどちらかです。(生きている状態と死んでいる状態が重なっているわけがありません)
しかし量子力学的な考え方が正しいとすると、人間の意識が関係してはじめて、世の中で起きている出来事が決まるという見方になってしまいます。
もしこの考え方が正しいとするならば、自然界の基本法則であるはずの量子力学が、人間の主観の存在を前提とした観念論的な法則であるとみなされてしまいます。
余談ですが、上記で距離と速度がわかれば時間が計算できますが、条件を限定すれば決定論も正しいと思います。しかし、世界はいろんな条件が複雑に絡み合っているので、一概に未来が決定論として測定できるとは限らないと思えます。
上記の例ですと、何もなければ2時間で目的地(未来の確定)につきますが、途中で交通渋滞にまきこまれると、到着時間が2時間30分かかるか3時間かかるか予測がたたなくなります。(非確定)
距離と速度以外の条件(交通渋滞)が加わると、正確な時間がわりだせなくなります。世界はいろんな条件によって成り立っていますので、確定論として未来を予測することは無理ではないかと思います。
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