仏教には『有』という言葉があります。その人自身が数十年、考え続けてきたこと、思い続けてきた思考内容が一定の方向に固まって、別の方向にハンドルをきることができない状態、魂は本来、自由自在であるはずですが、自由に選択する幅が限られた状態と定義しても良いかと思います。
十二支縁起という思想がありますが、智慧がない無明の状態で行為(行)をすることで魂の傾向性が出来上がり、次回の転生に魂の特徴として持ち越すことになると教えています。
魂の傾向性としての『有』の状態になりますと、軌道修正することが非常に難しいように思います。
現在の自分の傾向性は、過去世の思いと行いの結果、あるいは魂の兄弟の影響など様々な要素が絡んできていると思いますが、しかし、一度出来上がった魂の傾向性(有の状態)その方向性を、天使や菩薩あるいは神々の方向に軌道修正するのは容易なことではありません。
仏法真理を学んでいるとしても、その理解の仕方が信者によって全く違うということを過去の経験で学んでいます。
同じ仏法真理を学んだとしても出来上がっている魂の傾向性から理解し判断するのですから、同じ内容を同じように理解しているとは限らないということだと思います。
真理の理解が人によって違うのは過去世による修行の完成度の違いに原因があると思います。
ですから、地球神あるいは宇宙の根本仏の教えを学んでいるから自分は安心だと思うのは甘いのです。
主は自助努力が前提である。努力あっての他力であると説かれています。
しかし、実際には努力ゼロの人もいるようですから、学んでいないのと同じです。
仏教には、十二因縁・十二支縁起という考え方があります。
無明(智慧の明かりが無い状態)に基づく行(行為)によって、一定の魂の傾向性が形成されそれが、過去世の業として現世に持ち越します。(識)
母親の胎内で肉体の原型が形成(名色)されて、地上に生まれてきます。肉体に基づく感覚器官(六処)眼・耳・鼻・舌・身・意が発達することにより、感覚器官の対象にたいして(触)の感じ方や感受性(受)がはっきりしてきます。その対象に対しての欲望(愛)、この場合は渇愛がでてきはじめ、欲しいという執着(取)がでてきます。
それが魂の傾向性として形づくられて、これで『有』の状態になります。
そして来世の生まれ変わり(生)があって(老死)があります。
これが十二支縁起ですが、この迷いを断ち切るためには、真剣に仏法真理を学び以外にはないでしょう。
自分の霊性を向上させるのに楽な道などあるはずがないのです。
宗教としては他力も必要であると思います。
他力なくして宗教的救い、宗教的悟りなど考えられないからです。
しかし、仏教的修行においては、まず自助努力が前提条件であるといって間違いありません。
人に良い影響を与えるためには感化力が必要です。
感化力を養うためには、人にはわからないところで努力し光を蓄積する必要があると考えます。
仏教の王道とは『二河白道』であると思います。
『二河白道』の喩えとはだいたい以下の内容であったと思います。
西に向かって進むと忽然として二つの河に出会います。火の河は南側、水の河は北側にあります。
両側の真ん中にほんのわずかな道幅しかない、白い道があるだけです。
両河から水と火が絶えず押し寄せてきている状態です。
さらに後方から盗賊や悪獣が迫ってきます。
立ち止まっても引き返しても前に進もうとしても死が迫ってきます。
そこで河に挟まれたわずかな道幅しかない白い道を進もうと決意します。
すると東岸から声がします。
「汝、ただ決定してこの道を尋ね行け、必ず死の災難はなからん」
また、西の対岸からも声がします。
「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我は、汝を護らん」
これは仏道修行の厳しさを言い表しています。
仏を目指す道は厳しいのでしょう。


にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学