2019年03月31日

魂の傾向性を変えるには覚悟が必要 『二河白道』の喩え

魂の傾向性を変えるには覚悟が必要 『二河白道』の喩え

仏教には『有』という言葉があります。その人自身が数十年、考え続けてきたこと、思い続けてきた思考内容が一定の方向に固まって、別の方向にハンドルをきることができない状態、魂は本来、自由自在であるはずですが、自由に選択する幅が限られた状態と定義しても良いかと思います。

十二支縁起という思想がありますが、智慧がない無明の状態で行為(行)をすることで魂の傾向性が出来上がり、次回の転生に魂の特徴として持ち越すことになると教えています。

魂の傾向性としての『有』の状態になりますと、軌道修正することが非常に難しいように思います。

現在の自分の傾向性は、過去世の思いと行いの結果、あるいは魂の兄弟の影響など様々な要素が絡んできていると思いますが、しかし、一度出来上がった魂の傾向性(有の状態)その方向性を、天使や菩薩あるいは神々の方向に軌道修正するのは容易なことではありません。

仏法真理を学んでいるとしても、その理解の仕方が信者によって全く違うということを過去の経験で学んでいます。

同じ仏法真理を学んだとしても出来上がっている魂の傾向性から理解し判断するのですから、同じ内容を同じように理解しているとは限らないということだと思います。
真理の理解が人によって違うのは過去世による修行の完成度の違いに原因があると思います。

ですから、地球神あるいは宇宙の根本仏の教えを学んでいるから自分は安心だと思うのは甘いのです。
主は自助努力が前提である。努力あっての他力であると説かれています。
しかし、実際には努力ゼロの人もいるようですから、学んでいないのと同じです。

仏教には、十二因縁・十二支縁起という考え方があります。

無明(智慧の明かりが無い状態)に基づく行(行為)によって、一定の魂の傾向性が形成されそれが、過去世の業として現世に持ち越します。(識)
母親の胎内で肉体の原型が形成(名色)されて、地上に生まれてきます。肉体に基づく感覚器官(六処)眼・耳・鼻・舌・身・意が発達することにより、感覚器官の対象にたいして(触)の感じ方や感受性(受)がはっきりしてきます。その対象に対しての欲望(愛)、この場合は渇愛がでてきはじめ、欲しいという執着(取)がでてきます。
それが魂の傾向性として形づくられて、これで『有』の状態になります。
そして来世の生まれ変わり(生)があって(老死)があります。

これが十二支縁起ですが、この迷いを断ち切るためには、真剣に仏法真理を学び以外にはないでしょう。
自分の霊性を向上させるのに楽な道などあるはずがないのです。

宗教としては他力も必要であると思います。
他力なくして宗教的救い、宗教的悟りなど考えられないからです。

しかし、仏教的修行においては、まず自助努力が前提条件であるといって間違いありません。

人に良い影響を与えるためには感化力が必要です。
感化力を養うためには、人にはわからないところで努力し光を蓄積する必要があると考えます。

仏教の王道とは『二河白道』であると思います。

『二河白道』の喩えとはだいたい以下の内容であったと思います。
西に向かって進むと忽然として二つの河に出会います。火の河は南側、水の河は北側にあります。
両側の真ん中にほんのわずかな道幅しかない、白い道があるだけです。
両河から水と火が絶えず押し寄せてきている状態です。
さらに後方から盗賊や悪獣が迫ってきます。
立ち止まっても引き返しても前に進もうとしても死が迫ってきます。
そこで河に挟まれたわずかな道幅しかない白い道を進もうと決意します。
すると東岸から声がします。
「汝、ただ決定してこの道を尋ね行け、必ず死の災難はなからん」
また、西の対岸からも声がします。
「汝、一心正念にして直ちに来たれ、我は、汝を護らん」

これは仏道修行の厳しさを言い表しています。
仏を目指す道は厳しいのでしょう。




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posted by ガンちゃん at 16:34 | Comment(2) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年03月24日

自由と多様なる価値観 真理は単なる情報とはちがう

自由と多様なる価値観 真理は単なる情報とはちがう

言論の自由とは大切なものです。
本来言論の自由とはどのようなものでしょうか。

特定の宗教を信じることによって迫害を受けないために、言論の自由があります。
プロテスタントという宗派がありますが、過去に圧倒的な権力によって人々の良心が抑圧されたとき、一人ひとりの信仰をもつ信仰者達が、己れの良心に基づいて抗議をしました。
それが、マルティン・ルターをはじめとして起きた宗教改革であったと思います。

そして、その流れがヨーロッパやアメリカへと流れていき、近代民主主義政治の基礎を築いたのだと思います。

個人が直接的あるいは間接的にも一定の権力によって抑圧をうけることが無いように、個人の思想・信条・意見などを公に発表できる自由。
言論の自由とは、このような考えが基礎にあるのです。

しかし、自由には本来、責任というものがあるはずです。
他人の記事を無断掲載、しかも仏法真理の内容を情報の安売りのように無断で自分のブログに張り付け人気を集めようとしている人もいます。

総裁先生は以下のように述べています。
法話の案内などでも、「法話は情報ではありません。メールなどで情報として流すだけでは伝わりません。自分の肉声でお伝えください」と述べられています。
コピペしている人は情報として張っているだけですから、読んでいる方も情報として受け止めているだけだと思います。
違う人もいるかもしれませんが、深い意味で自分の学びとして魂を変えていこうとまでは考えていないのではないかと自分には感じられます。

法がなぜ情報と違うのか私なりに考えて一言でいうとするならば、法には魂の傾向性を変える力があるからです。
情報は時間の流れとともに消えていきますが、久遠の法は私たちの精神性・魂の方向性を決めてしまう力があるのです。
ですから、私たちは真剣に法を学ばなければならないのです。

コピペは自分の頭で全く考えていませんから、批判的なコメントが来ても自分では答えられません。
何の反論もできず無視することしかできないのです。
これは全くの無責任な姿勢だと思います。
無断で張るだけ張って後のことは知りませんと言っているようなものです。


神様は人間を創造するにあたって、自由を与えられました。
自由があるからこそ個人において多様なる価値観が学べるのです。
自由が与えられているからこそ、魂の向上を目指すことができると同時に、堕落することもできるのです。
ただし、自由であるからと言って魂を堕落させる行為は間違っています。
なぜなら、神は魂を創造されるときにそのような目的方向性を考えておられなかったからです。

同様に、自由であるからといって多様な情報を自分のブログに集め勝手に発信する行為はまちがっています。
ニーズがあるからと言って他の情報を拾い集め発信する行為は著作権侵害に該当するはずです。

言論の自由が保障されているからといって、他の情報を勝手にコピペし発信していながら、批判に対しては責任を取らないというのであれば、やっている行為は低俗な週刊誌とどこが違うのでしょうか。
低俗な週刊誌も人の情報を盗み撮りして公に公表し責任を取ろうとしません。
中国人の一部の人たちも著作権を無視し国際法に違反していると知りながら、海賊版を安く売って儲けていますが、同じようにしか見えません。

やはりその発言に対しては、ある程度の価値判断がなされるべきであると思います。
たとえ同じ信者同士であっても間違っていることに関しては間違っていると注意する必要があるのです。
何も言わないで波風を立てないことが真実の調和ではありません。

言論の自由は人間にとってとても大切な権利だと思います。しかし、言論の自由はその発言に対して、あるいは内容に関しては、必ず責任がともなうと思います。
責任が伴わない自由など、そのようなものは真実の自由ではなく、放縦というのです。


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posted by ガンちゃん at 02:54 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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