今という時代は、神の存在を否定し、理想的なものを引きすり落とそうとする精神性の希薄な時代であると思います。
目に見ることのできない尊い存在に対して敬う気持ちを失い、批判することが当然であるかのように自分本位な人達が横行しています。
動物に近い自己防衛本能のままに生きている人たちは、他の人が犠牲になっても自分を守ること以外に考えが及びません。
他の人を犠牲にしても自分を守るということは、自然の法則といえばその通りかもしれません。
しかし、その自然の法則に逆らって生きていた人達も存在したというのも歴史の真実です。
青銅の法では、何人かの聖者をあげていましたが、私はその中で2人あげてみたいと思います。
「聖ジャンヌ・ダルク」
「イエス・キリスト」
です。
【ジャンヌ・ダルク】
ジャンヌ・ダルクはフランスのドンレミという村の農家の娘として生まれています。
特別な教育を受けたわけではありません。
しかし、ジャンヌの資料をみると深い信仰心を読み取ることができます。
ジャンヌに神の声が降りたことによりフランス軍は敗戦の一歩手前でイギリス軍に勝利することができました。
しかし、ジャンヌを捕まえて裁判にかけ火刑にしたのは同胞のフランス人でした。
教会の司教らは、無学の村娘である彼女に神の声が降りたことに対しての嫉妬心、そして聖人として認めたくない気持ちがあったのでしょう。
教会側は彼女に対して難癖をつけ、罪を認めさせようとします。
司教が彼女に対して尋問します。
同女(ジャンヌ)に現れたこの声とは、天使なのか、直接神から来たものなのか、あるいは聖者か聖女の声なのか、問われると以下のように答えています。
「あなたに答えないことより、この声のそぐわぬことをしゃべってしまって『声』を裏切る方を私は恐れます。」
ジャンヌ・ダルク処刑裁判より
また、青銅の法にも書かれていますが、カトリック教会では親の言いつけに従わなければならないという決まりがありその教えを根拠に司教がジャンヌに尋問します。
「おまえは親の言いつけに背いたか」というような尋問をし、背いたのであれば異端だという言いがかりをつけ罪を認めさせようとします。
相手は十代の少女であるのに・・・。
「最終的な処刑の根拠は、ジャンヌがいったん捨て去った男の服装を着用したことにあった。
だが証人たちは、判事たちが重大視したかに見えるこの男装も、ジャンヌが再び着用したのは牢番の暴力から身を守る為でしかなかったことを証言している。」
ジャンヌ・ダルク復権裁判より
そして、彼女が自分の死を告げられた時、悲しげにこのように言ったと伝えられています。
「ああ、なんという恐ろしくむごい扱いでしょう。これまで汚されたことのないこの軀そのものが、今日という日に焼き尽くされて灰になってしまうとは!
ああ、このように焼き殺されるより、七度首をはねられたほうがましですもの。・・・」
ジャンヌ・ダルク復権裁判
何度読んでも涙を誘うシーンです。
フランスを救った少女は、フランスの教会側の嫉妬によって地上の生命を断たれました。
【イエス・キリスト】
現代の西洋文明の根底を支えている宗教的な地盤はキリスト教です。
二千年の西洋の歴史はキリスト教の歴史であったと言ってよいと思います。
ギリシャ文明やローマ帝国の影響もありますが、宗教的な教えによる西洋人の精神的支柱になっているのはキリスト教であったと思います。
イエス様の最後が近づいたときに、ゲッセマネの園でお祈りをしています。
「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らしてください。しかし、私の思いのままではなく、御こころのままになさって下さい」
それから弟子たちの所に戻ってきてみると彼らは眠っていたのです。
イエス様はペテロに言われます。
「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目を覚ましていることが、できなかったのか。
誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体は弱いのである。」
イエス様が二度目に行って祈っています。
「わが父よ、この杯を飲むほかに道がないのでしたら、どうか、御こころが行われますように」
イエス様が必死に天の父に向かって祈っているというのに、弟子たちは起きていることができずに何度も寝てしまうのです。
そのような心もとない状況でローマ兵に捕まってしまい、ユダヤ人の宗教裁判によって有罪にされてしまいます。
ローマ側はそれほどの罪とは思えないので逃がしてもよいのではないか、と言われていますが、ユダヤ人のほうが赦しませんでした。
ローマの行政官ピラトは、二人の罪人のうち一人は赦すと言われましたが、ユダヤの民衆はバラバを赦せと叫んでいます。
バラバとは強盗殺人犯です。
ピラトは「あの人は、いったい、どんな悪事をしたのか」と問うと、民衆はいっそう激しく「十字架につけよ」と叫んでいます。
ピラトは群衆の前で手を洗って言います。
「この人の血について、私には責任はない。おまえたちが自分で始末するがよい」とうまくかわしています。
ユダヤの民衆全体が答えて言った
「その血の責任は、われわれとわれわれの子孫の上にかかってよい」と。
実際その言葉通り、この二千年間ユダヤ人に責任(カルマの法則)がかかってきます。
イエス様の最後は、罪人とともに磔にされます。
天上界において最大である救世主が、地上の最低な人達に罵られて・・
頭には茨の冠を被り、わき腹を刺され死んでいきます。
このような歴史的事件をどのように解釈すればいいのでしょうか
弟子たちですが、ユダはイエス様が罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を聖所に投げ込んで出ていき、首をつって自殺しています。
ペテロはイエス様に言います。
「みんなの者があなたにつまずいても、私は決してつまずきません」
イエス様は言われました。
『よくあなたに言っておく。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう』
ペテロが中庭に座っていると女中が来て、あなたもナザレのイエスと一緒だった言われます。
ペテロは、「あなたが、何を言っているのかわからない」「そんな人は、知らない」と言ってしまいます。
実際、鶏が鳴く前に私を三度知らないというであろうと言われたイエス様の言葉を思い出して外に出て激しく泣いた、とあります。
これには難しい問題が含まれています。
私には信仰心がありますと言っても、実際に自分が死ぬかもしれないという極限状態で信仰を貫けるかどうかわからないことを意味しているのかもしれません。
一つ言えることは、人生の途中で信仰を捨てた場合、霊天上界に還ったとしてもその後悔は魂の苦しみとなってずっと残るということです。
その苦しみは肉体が切り刻まれる方がまだましだと思えるぐらいに魂が苦しむと聞いた覚えがあります。
総裁先生の総括は、結局、「霊的である」ということを証明するために、みんなが共通して『よい』と思えるようなこの世的な価値観に対して、『霊的な価値は逆のところにあるのだ』ということを、象徴的に表さなければならない場合があるということです。
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