今回の事件を反面教師として考えてみた場合、私達は改めて信仰心とは何かを考える機会を与えていただいたと考えることが可能ではないかと思います。
結局、大川総裁先生を地球神として認めるかどうか、この一点にすべてかかっています。
心から主を信じていなければ、すぐに不信感に襲われ疑いの心が生じてくるでしょう。
信仰は、信じる心は100%を要求します。
50%の半分までは信じられるとか、99%は信じられるが残り1%がちょっと信じられないという信仰はありません
すべてを受け入れるのか受け入れないのか、これ以外にありません。
魂が肉体に宿ると、本来の魂のもつ自由性や創造性が制約されてしまい精神の持つ本来の力が制限されてしまいます。どうしても霊的な見方ができずに、肉体に規定された見方以外にできません。
だからこそ目に見ることにできない神や仏を信じることに意味があるのです。
この物質世界だからこそ信じるという行為が生じてくるのです。
地上に生まれた盲目である人間であっても、信仰の本能は備わっていると教わっています。
信仰の本能とは、「目に見えないものを信じ、理解し、それに基づいて行動することができる」
「感覚器官で感知できるもの以上の尊いものを理解し、信じることができる」という性質のものです。
人間の心には神性、仏性が宿っています。
信仰の本能は神性や仏性に対応しているのでしょう。
少なくとも信仰心があるように見せかけて、信仰を利用するなど信者としてあるまじき行為であるといえます。
トルストイの『人生論』という書物には次のように書かれています。
「人は理性の意識と、動物的自我をすっかり混同している。しかし、動物的な自我の欲求をいくら満足させたところで、人は幸福にはならないし、したがって生きることにもならないと、理性の意識はくり返し人に教えた」
「理性の意識がない動物にしてみれば、本能を満足させ、種族を絶やさぬよう、子を残すのが生活の最高目的なのだ。ところが人間になると、そうした動物的な自我は生存の一つの段階にしかすぎない。その一段上に、動物的な自我とは一致しない人生の真の幸福が認められるのである。」
トルストイが述べている一段上の真の幸福とは、精神的な幸福であり神を信じ神と共に生き、神に見守られているという精神的喜びのことであると思います。
神仏に対しての信仰心は、人間としての本来の美しい姿であると思えます。
信仰を利用して自分の名前を売ろうと考えること自体、自立していません。
自分で自立して生きていくのであれば、幸福の科学に関係なく自分の自助努力で道を切り開いていくべきです。
その時、主の大変さと偉大さが認識できるのではないでしょうか。
そして再び救世運動に合流することを願っている人も大勢いることでしょう。
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