アリストテレスは、万人が目指すべきよきものとして『善』を定義しています。
そして、達成しうるあらゆる善のなかで最上の善とは幸福(エウダイモニア)であると述べています。
ですから善と幸福は一致しており善即幸福・幸福即善ということになると思います。
この点に関しては西田幾多郎も善は幸福であるとして以下のように論じています。
「善と幸福とは相衝突せぬばかりでなく、かえってアリストテレスのいったように善は幸福であるということができる。我々が自己の要求を充たすまたは理想を実現するということは、いつでも幸福である。
善の裏面には必ず幸福の感情を伴うの要がある』
ただし、快楽に伴う幸福とは区別しています。
「ただ快楽説のいうように意志は快楽の感情を目的とするもので、快楽がすなわち善であるとはいえない。快楽と幸福は似て非なる者である。幸福は満足に由りて得ることができ、満足は理想的要求の実現に起きるのである。」善の研究 第九章 善(活動説)と述べいます。
ただの快楽には精神性がなく、他者に依存しているので高度な精神を有する人間の幸福とは違ったものがあります。
アリストテレスは、人生(あるいは哲学)の目的は善であると述べています。
西田幾多郎は「幸福とは善である。善であることが幸福なのだ」と述べています
宗教的にみればその通りでしょう
善とは正しさであり、自分の心を正し行いを正した生き方でしょうから、善であることが幸福なのだと言えると思います。
「悪を退け、善を選び取る」、「悪を押し止め、善を推し進める」ということでしょうから、仏教的観点からみても正しいと思います。
そして「幸福とは善である」ということは幸福の科学で説かれている幸福論とも一致します。
地上において善を追求するということは、同時にあの世での幸福を意味しています。
善を探究する姿勢にこそ、天上界・実在界において永遠の生命を保証する生き方そのものであるといえます。
ですから、西田幾多郎が説く「幸福とは善である」とは「この世とあの世を貫く幸福」と同じ意味を内包しているといえます。
ヒルティは二種類の幸福があると述べています。
「一つは常に不完全であって、この世のさまざまな宝をその内容とする。
いま一つの幸福は完全なものであって、神のそば近くにあることがすなわちそれである。」
「この世で得られる永続的な幸福は、たえず神のそば近くにあることと結びついた、同様に絶え間ない有益な仕事である。
いささか「神秘的」にすぎると思う人があるならば、「偉大にして真実の思想にいきる」という表現に、しばらく代えてみてもよい。」幸福論(第三部)
一つ目の幸福とは、地上的幸福であるといえます。
地上的なもの、感覚的なものは滅びが内包されており、変転変化し過ぎゆくものです。だからと言って否定するつもりはありませんが、有限という意味で永続性のある幸福とは言えない部分があります。
ヒルティに言わせるとそれは、一時的なもの、錯覚に基づく幸福ということになります。
それではヒルティが言う「たえず神のそば近きにある幸福」とはどのような意味が込められているのでしょうか。
ヒルティはイエス様のように、たとえ信仰なきものから蔑まれ、弾圧を受けようとも、信仰を貫き、神の御心に従い、神の教えを体現しようとする生き方をするならば、それはすでに神のそば近くにあるのであり、永続的な幸福を得ることができる。と説いたのでしょう。
大川総裁は「神や仏のそば近くに座れるようになる」ための条件として信仰の優位について述べられています。
「信仰の優位ということを、しっかりと心に描かなければなりません。
代償の法則の中で、最大のものとは、実は、『この世的なものを、どれだけ捨て、そして、真理に生きららるか』ということです。」
幸福の科学の信者である私達が神のそば近きにある為には信仰心が大切であるということです。
信仰を通して神と繋がっているのであり、日々努力精進し、愛の思いを継続的に持つように努力する姿勢こそが神のそば近くにあることだと考えます。
アリストテレスやヒルティは霊的世界に裏打ちされた真理価値を知っていたのでしょう。
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