王陽明は陸象山の心即理の思想を受け継ぎ「心こそがすべてである」という考えを徹底的に打ち出しました。
すべては心の中にあって心の表れなのです。
谷間に咲く百合の花であってもそれは百合の花が存在するのではなく、心の寂の状態が谷間に咲く百合の花なのだ、というように、すべては心の思いが発現したものだという考えなのだと思います。
人間の行為を含むすべての現象は、心で思った内容の表れであり、知ることすなわち思いと行為の間に分離はないとしました。
これが王陽明の『知行合一』です。
知っていて行わないということは、実際には知っていないのと同じであるということです。
すべては、心で思った内容が発現したものだという唯心論的立場なのだと思います。
霊界において思うということは、即、存在であり行動でもあります。
ですから、心で思うこと考えることがすべてであるとする思想は、霊界の法則を地上的表現でストレートに述べているといえます。
心について徹底的に探究したという点で、天台智の一念三千論に共通するものがあると思えます。
一念三千とは、十如是、百界千如、三千種世間など、波長同通の法則を論理的、分析的に説明した教えといえます。
王陽明や天台智の思想に極めて近い考えが人間原理と言われるものです。
人間原理宇宙論とは、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。
「宇宙は、観測者である我々人間が依存してはじめて存在する」といった、一瞬不可解に思える結論です(もちろん人間原理が全くのナンセンスと考える人の方が多いことは承知していますが)。
一般的な科学的世界観によれば、この世界は客観的現実であり、たとえ観測者であるわれわれ人間が存在しなくとも、世界は厳然として存在します。
古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。
「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」
しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子としも波としても観測されるということ、その違いは何かといいますと、観測目的をあらかじめどちらに設定するかによって決まることを知っています。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。
意識ある存在(人間)がどちらの実験方法を選択するかによって、実在が意識ある存在の思った通りに観測されます。
観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在のみです」
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。つまりそこに生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。
もしかしたら、物質と精神作用との間に、「共生関係」が存在する可能性が指摘できるのではないかとも思えます。
もし、大宇宙神霊意識と人間の意識が相互に影響しあうとすればどのようなことが起きるのでしょうか。
人間の考え方や想いが、大宇宙神霊意識が思われる方向性と違う方を向いていたら、宇宙全体の調和を乱すことになるのではないでしょうか。
地球は地球として独立した星というのではなく、地球に住む人類の考え方が間違ったならば、それは他の星や宇宙にも悪影響を及ぼすのかもしれません。
反対にこの危機の時代に、地球にユートピアを創ることができれば、宇宙全体の進歩と調和に貢献したことになるのだと思います。
心で思うことがすべてという点で、人間原理と王陽明の思想は共通していると思います。
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