『視霊者の夢』という本を題材にして、スウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関して霊的世界を認識できないので信じられない、あるいは客観的証明を伴わないものは学問の対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する、そのような人達に対して、その考え方自体に問題があるということを述べていきたいと思います。
カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。
ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなど、考え方の違いによる対立がありました。
スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。
1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグと対決する姿勢を明らかにします。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至ります。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。
たしかに『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界を認めてしまうと、カント哲学の崩壊を意味することになるかもしれません。
カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を照らすことで事物を認識することができると考えたのだと思います。
カントのいう概念とは、対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、経験がなければ概念と経験を関連付けて認識することが不可能であるという立場です。
また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されています。
つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。
つまり、人間の認識は肉体の機能に依存しているといえなくもありません。
・・・かといってカントは、霊的世界や霊魂に関して全面否定しているという立場でもないようです。
文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」
しかし反面で、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」
結局、霊を信じるか信じないかは個人の自由ではあるけれども、客観的証明ができませんから、すべての人が学問として学ぶ対象としては成立しません、ですから私は除外するということでしょう。
しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることになります。
唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。現代はそのような時代です。
更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。
しかし、道徳をこえたものは、愛であり霊界における善悪の価値基準です。
もっともカントは道徳の大切さを訴えていますが、その動機ことが重要であるといわれていたと思います。動機が大切だということは、道徳的行為以前に心の在り方が問われていると考えられます。
道徳は現実世界に現れる善悪を問題にしていますが、心の在り方まではチェックされていません。
表面だけ道徳的に生きたとしても腹黒い人もいるわけです。
目に見える部分だけ正しく生きても、本当の自分自身とは心ですから、道徳には限界があるということです。
この点は難しい議論でありますが、仏教では人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しているとのべています(十八界)。
感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができないといって否定する根拠にはならないでしょう。
肉体には、時間を知る為に必要な感覚器官がついていません。
時間と霊性は密接な関係にあり、時間を感覚として直観できないのと同様に霊的世界も認識できないように肉体が創られているように思えます。
スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」と述べたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」と述べています。
ルドルフ・シュタイナーも人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。
最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味です。
この内的意味は、人間には知られていません。
そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」
つまり、カントとスウェーデンボルグは役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立していると思えますが、弁証法的に統合していく観点が必要であると思います。
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