私達は、神仏や高級霊に対しての尊崇の念、畏敬の念を自分では気付かないうちに忘れていたのかもしれません。
そんなことはないと思う人もいるでしょうが、尊崇の念が表面的な知識のレベルではなく、魂の奥から沸き起こってくるかどうかが問題なのです。
神仏の世界、霊的世界に参入するには、神仏に対しての尊崇の念、畏敬の念を忘れてはならないでしょう。あまりにも数多くの霊言が当たり前のように本屋に並んでいるので、最初の驚きや感激が薄らいでいるかもしれません。
本来、ラ・ムーの本心など聞けるわけがないのです。
聞けるわけがないラ・ムーの本心を聞くことができる、読むことができるということ対しての驚きと心からの感謝の気持ちを持っていた人がどれだけいたのでしょうか。
「人類は信仰の名のもとに、自分達が救われる為の宗教ばかり発展させてきたようである」と書かれています。
本物の信仰が自分達だけの救いになる為のものであっては、何か違うと思います。
真実、謙虚に心を空しゅうしなければ真理の扉は開かれないのでしょう。
ラ・ムー大王は、魂の創造にも関係している為、造物主あるいは根本仏であるといわれています。
魂の消滅は可能であるのか、あるいは魂は一度、創造されると消されることはないのか、疑問が残ります。
しかし、創造することが出来るということは、破壊あるいは消滅させることも可能であると考えられます。
創られたものであるならば、消滅させることもできるというのが結論です。
太陽から送られてくる光(エネルギー)がなければ、魂は存在できないといわれていたと思いますが、正確にいえば、光に含まれている霊的エネルギーの供給がなければ、存在できなということなのでしょう。
魂も霊的エネルギーの補給が立たれたら消えていく存在なのかもしれません。
創造と破壊あるいは創造と消滅は対をなして一体であると思えます。
高等宗教を学ぶ意義についても考えてみます。
一般的日本人が考えている宗教感は、何かの対象に祈れば救われるというパターンのものでしょう。
南無妙法蓮華経を唱えたら救われる、南無阿弥陀仏と唱えたら救われるなど、このように思考を使わない単純救済型宗教は人気があり広がり方も早いと思いますが、実際に救われているのかどうなのか検証がされていません。
ここで救われているという意味は、魂の救済を意味しています。
現在進行形で数千年も残る高度な教え、法が説かれているのですから、環境を言い訳にすることなく必死に学ぶべきだと思います。
更に、ラ・ムー大王は質問に対して時折、御怒りが爆発していたようです。
ムー文明にもラ・ムー大王によって、現在説かれている太陽の法に近い教えが説かれていたと、初期の本に書かれていた記憶が私にもあります。
おそらくそのようなことを意味した質問であったのであろうと思われますが、そんなこと、あなたにわかるのですかという意味合いの言葉を述べていたと思います。
他の質問に対しても、あなたはそれを確認したのですか、見てきたのですかという感じがあったと思われます。
これはどのような意味があるのか自分なりに考えてみますと以下のような意味ではないかと推測します。
例えば自分が感動した本は、他の人にも勧めたい、紹介したいと思うものです。
しかし、一度も読んだことがない本を、いかにも自分はだれよりも早く紹介しますというような人がいたとしたらどう思うでしょうか。
あるいは、アルファの法はすごいですというように紹介した人がいたらどう思いますか。
私であればこのように言うことでしょう。
あなたにアルファのことを言う資格などありません。あなたに根本仏の何がわかるのでしょうか.。
あるいは、岡潔氏の本など読んだことがないのに霊言がでると誰よりも早く紹介します。
岡潔の生前の本を読んで記事にしていた人を差し置いて、読んだことがない人が紹介だけするなど全くおかしなことです。
なぜ、読んだことがないのに、その素晴らしさを人に紹介できるのでしょうか。
できるわけがないのです。
生前読んだことのない有名な人の霊言を、恥ずかしげもなく、私が宣伝します的に紹介できるということは、そこに何か不純なものがあるからです。
やはり、知りもしない人が知ったかぶりしてわかったように述べているのを見ると腹も立つのではないでしょうか。
ラ・ムーの本心は神の威厳を感じる一書であります。
すべての人に読んでほしいと思います。
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