2018年07月28日

自由の中で一番大切なもの 信教の自由

自由の中で一番大切なもの 信教の自由

自由は、素晴らしいものである、と大抵の人は認めていると思いますが、人により自由に対する解釈がバラバラで、統一的な見解がないように思います。

魂が未熟であると、自由を自分の都合に引き寄せて勝手な解釈をし、他人に対する配慮を考えないでわがままな行動に出たりします。
つまり、他の制約を受けずに自分のわがままを正当化するために自由という言葉を使う輩がいます。

信仰の自由について歴史を振り返りながら、改めて考えてみたいと思います。


憲法には三権分立が一つの制度として定められています。
「立法権」「司法権」「行政権」です。

立法権は選挙によって選ばれた代議士たちが集まって法律をつくっている、立法府としての国会。

行政権は内閣総理大臣や閣僚、それにつながる各省庁です。

司法権とは、最高裁判所をはじめとした裁判所のことです。

権力が一点に集中すると腐敗していくので、権力を分散、制度的に権力を三権力にして、相互に牽制しあうというかたちになっています。

アクトン卿の言葉通り、「絶対権力は絶対に腐敗する」ということで、権力を分散しながら牽制しあうことで、制度的に絶対権力をつくらないようにしています。

しかし、ここにマスコミという第四権力がたちあがってきました。しかも、この第四権力は日本国憲法では本来予定されていなかった権力で、「法の欠缺」、つまり憲法に欠けていたものがあったといえます。

マスコミは情報のところを抑えているので、実際に「立法権」「司法権」「行政権」のすべてをおさえて絶対権力になりつつあります。

本来は、国会が最大の権力をもっているわけであり、立法府が第一権力であるべきなのですが、国会議員が選ばれるには、選挙という洗礼を受けなければなりません。
もし、多くの人の票を左右する影響力をもったものがあるとすれば、それは、立法府をこえた権力と見ることができます。

それは新聞、テレビ等のマスコミであり、かれらは情報を操作しながら、国民を一定の方向に誘導することが現実に可能なわけです。

日本国民全員が自分の価値判断で決断できる知識をもっていれば、マスコミの情報におどらされることはないと思いますが、現実にはそのようになっていません。
マスコミに関しては、その情報が確かなものかというチェックする機関がないので、意図的に情報を操作できる立場にいます。

司法権である裁判所にしても、裁判官が判断する情報はマスコミが握っています。
国民世論もマスコミによって操作されてしまいます。
国民世論といっても、どの情報を載せて、どの情報を載せないかはマスコミの上層部の判断でどうにでもできてしまいます。

このようなところに悪魔が忍び寄ってくることは必然であり、現在、この権力に対抗できるのは真実の宗教団体と宗教政党以外にありません。

日本国憲法の「言論・出版の自由」とは公権力からの自由であり、個人や企業に対しての自由ではありません。

国家権力によって、情報の内容を判断されてそれを国民に対して知らせない、あるいは中国共産党のように、言論機関に圧力をかけて国民に知らせないということがないように、「言論・出版の自由」が定められています。

そしてなによりも、言論の自由より先に信教の自由があるということを再確認しなければなりません。

歴史的には信教の自由が先なのです。

宗教の自由、仏や神を信じる自由は人間にとって大切な基本的人権なのです。

人間から仏、神を信じる自由、信仰の自由を奪われたら人間は地上において、生きていくことができないのではないかと思います。

信教の自由から信仰告白の自由が生まれたのです。そして信仰を告白しても迫害されないために、言論の自由がでてきたのです。
歴史的には、信教の自由から言論の自由がでてきたのです。

ところが現代の日本人は自由という考え方を間違って解釈している人が多く存在します。

言論の自由のほうが優先されており、信教の自由、信仰告白の自由を何か弱い人間が集まって慰め合っているのが宗教でしょうぐらいの認識しかもっておらず価値観がまったく転倒しています。

左よりの唯物論的なマスコミや日教組たちの影響及び、宗教にしても邪教団の活躍によって、日本人は本来向かうべき方向を見失っているのではないでしょうか。

言論の自由を隠れ蓑にして、マスコミは誤った発言にたいして責任を取ろうともせず、また週刊誌等も売上を上げるために記事の内容を捏造する、あるいは人を言葉の暴力で傷つけて恬として恥じない。

まず、日本に信教の自由、信仰告白の自由があたりまえという価値観を定着させ、仏や神を信じない人は、動物と変わらない危険な人間なのだということを教えなければいけません。




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posted by ガンちゃん at 03:23 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月25日

私に内包されている絶対矛盾的自己同一と色心不二 多様性の価値

私に内包されている絶対矛盾的自己同一と色心不二 多様性の価値


私(人間)とは、どのような存在なのでしょうか。
人間の肉体には、永遠不滅の魂、霊魂が宿っています。
霊は、死ぬこともなく生滅することもありません。
しかし、肉体はどうでしょうか。
肉体は、日々変化し病気になり、やがて死んでいきます。
肉体は、有限のものです。

有限である肉体の中に、永遠不滅の霊が同居しています。
私とは、有限の肉体に永遠不滅であり無限に生存し続ける霊が共存しています。
有限と無限あるいは、有限と永遠不滅は絶対的に矛盾しています。
滅びゆくものと永遠不滅のものが、自己の中で一体化しています。
あるいは対立関係にある有限と無限が共存しています。

絶対的に矛盾するものが自己の中で一体化しています。
これが『絶対矛盾的自己同一』の意味かもしれません。
おそらく、西田幾多郎氏は生命をそのように認識していたのかもしれません。

あるいは、私の内面に多様なものが存在するから、矛盾するのです。
多様であればこそ矛盾が生じてきます。
ヘーゲルは、対立矛盾する関係を、一段高い認識力によって統合する弁証法を提唱しました。

仏教的には「色心不二」といわれています。
色(肉体)と心(霊性)は別のようでありながら、一体であり同一であるという意味だと理解します。

しかし、霊的存在を認めようとしない唯物論的科学者は、転生輪廻の主体である霊的自己を否定し、遺伝子が永遠に続いていく主体であると考えているようです。
人類が永遠に続いていく主体とは自己複製子(遺伝子)であると考えています。

利己的遺伝子説では、遺伝子こそ主役であると考えるべきであると主張します。

しかし、遺伝子(遺伝子はデオキシリボ核酸DNAによって構成されます)が本当に私自身であるといえるでしょうか。
人間の本質が遺伝子によるのであれば、愛の気持ち、優しさや悲しみといった人間の尊い感情など起こらないのではないでしょうか

利己的遺伝子の著者は、人間の本質などまるでわかっていないのでしょう。

人間の本質が、永遠不滅の霊だからこそ多様性が大切であるといえます。
多様性には、自分自身にとっての苦しみも含まれていることでしょう。
しかし、多様性(多様なる価値観)は、魂を進化させ複数の喜びをもたらせてくれるでしょう。

現代は、自分の好き嫌いによって(自分にとって)正しいか間違いであるのかの価値判断を下しているようです。
しかし、自分の好きな範囲などしょせん限定的であるのにすぎず、魂の進化は望めないでしょう。

地球という星の特徴として、他の星の価値観が共存していつつも、地球としての仏法真理が確立しています。

多様性こそが複数の喜びを享受することができ、人間の本質としての魂、霊性が進化する為に必要なことであると結論しておきます。

更に多様性は生物にとっても必要不可欠であるようです。
以下、生物学者のエドワード・ウィルソンの言葉を引用したいと思います。

生物学者のエドワード・ウィルソンはこのように述べています。
「生物多様性について、私が最も繰り返し投げかけてきた問いは、『もし、一定以上の数の種が姿を消したら、生態系は破壊され、その後すぐに他の大部分の種も絶滅するのではないか?』というものだ。
いまのところ、この問いに対しての可能な答えは、『その可能性はある』だけだ。
しかし、本当の答えがわかった時はもう遅いだろう。それは、一つの惑星で一度しかできない実験だ」





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posted by ガンちゃん at 04:43 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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