2018年06月08日

レオ記事より掲載 六次元世界の住人は抽象概念の対話が出来る、とのこと

レオ記事より掲載 六次元世界の住人は抽象概念の対話が出来る、とのこと

ガンちゃんまえがき<解説>

多くの人は、まずもって思想や哲学に関心を持ちません。
高度な哲学ほど抽象的になり、意味を理解することが困難になります。
六次元あたりから光の戦士、天使の世界に踏み込むことになると思いますが、下次元から高次元に上るほど具体的なものから抽象的になってきます。
ただし、抽象的であれば高次元なのかといえば、そうではありません。

仏の価値基準から判断して正しくなければなりません。

抽象的であっても内容が間違っていては意味がありません。
また、全く関係性がない概念と概念を組み合わせて無理やり説明しようとしても、意味を為さないと思います。
例えば、自由と平等を善と悪に結びつけたところで正しい認識とは言えないでしょう。

自由が善であるかといえば、仏の願う方向に発揮されれば善であり正義と言えるでしょう。
しかし、自由だからと言って他の人を顧みない行動は悪になるはずです。

平等も機会の平等チャンスの平等であれば、善であるはずです。
人々の可能性を最大限に生かすという意味で正しいと思います。
しかし、結果平等は努力に対しての差別化を無視する考えであり、公平性を欠くという意味で悪なります。努力を認めない結果平等は間違いです。

ですから、自由が善で平等が悪と決め付ける考えは間違っています。
自由や平等は善や悪が固定化しているのではなく、個人の考え方や行為によって善にもなり悪にもなるということです。

ですから、本人が正しく理解していなければ、いくら真理の言葉をつなぎ合わせても駄目だということになると思います。

レオの考え私は正しいと思うので紹介しておきます。

以上

↓↓ここからレオ記事

https://ameblo.jp/space-people/entry-12381668264.html


目に見えないもの、概念の対話、イデアとか、愛、正義、信仰、信念、知性、その他、いろんな用語を使って話したり、書いたりしても、
話している本人が、その単語をどういう理解のもとで使っているのか、それは人それぞれなので、定義をしっかり押さえておかないと、まったく話が通じなかったりするんですよ。

だから、こういった抽象用語を使った主張というのは、日頃から、同じようなレベルでモノを考えている友人なり、法友たちとの会話をするなりして、果たして自分の理解は正しいのか、使い方は正しいのか、その実地訓練を行っておかないといけない。

他の人に通じるような言葉づかいが出来ているかどうか。実際に対話してみたり、議論してみたりして、誤解が生じていないか、コンセンサスが取れているか、そうした経験も積んでおかないといけないんですよね。

そういう他者との会話や交流をしないで、単に独りで家にこもって、本を読んでいるだけ、そして、概念用語が頻出する哲学書や思想書を読みまくったとしても、自分勝手な独りよがりな「わかったつもり」になっていることも多くなるわけで、

だからこそ、他の人との交流が、いっそう必要となるんですよ。
思想を共に学び、語り合う相手とかね。

自分の体験で言ったら、同じく、哲学書などをよく読んでいる法友数名と、喫茶店で会話したことがあったんですが、

洞察力とは何か、直観とは何か、そもそも概念とは何か、などなど。
根本のところの理解を互いに話してみたら、微妙なずれというか、理解の違いがあったりしてねー。

ああ、何気に、概念がどうのこうの、とか、直観的には、自分はこう洞察する、なんて言っちゃっていても、その言葉自体を相手と共有できているとは限らないんだな、と。

たとえば「自由」という概念用語にしたって、人はやたらと、自由自由と言いますが、そもそも「自由の概念」をその人はどう理解しているのか?という問題がありますからね。

自由には責任が伴う、とはよく言われることですが、
自己責任がまったく無いようなロクデナシが、自由自由なんて言ったって、それは深い意味での自由のことではなくて、単なるワガママ、好き勝手を指して「自由」と称しているだけの話であって、
ジョン・ロックやルソーやハイエクや、シュタイナーやヘーゲルが使っているような意味での「自由」とは似ても似つかない、単なるエゴ主張でしかなかったりするわけで、

わたしは、自分の好きなようにする、それが自由だ

なんていうレベルでの自由論では、お話にならないんですよね。

政治的権利としての自由にしたって、それは自由だと思う、人それぞれ好きにすればいいと思う、なんて主張する評論家がいたとして、
あなたの自由論には、責任を伴わせるという発想はきちんと入っていますか?責任を踏まえた自由を語っていますか、と問わないといけないのでね。

好き勝手や放縦を、高次の意味での自由、人間の自由意志論と混同してはいけない、ということですけどね。

ブログに関して言えば、不平不満や邪悪な発言を垂れ流すコメントですら、削除せずに好き放題に書き込ませるのが自由だ、なんて主張している連中がいましたが、こういう連中のその後の顛末を見てみればわかりますが、

そうして好き勝手に発言した、その内容の発言の悪影響・結果に対して、当人たちは全く責任を取らなかったでしょう?
一部の悪質な粘着質アンチや、エセ信仰者には、この手の無責任自由論を述べる人間が多かったこと、ここに明記しておこうと思います。

好き勝手な発言をした場合に、それが間違っていたら、読者の前で謝罪するなり、申し訳ありませんでした、以後、発言を自粛します、といって自己反省するなりするのが、責任を持った人間の態度であり、道徳的観念を備えた大人の態度というものなんですけどね。
それをせずに、ただトンズラして、何事もなかったかのように知らんぷり。自分の発言の過ちや不明に対して、謝罪もなければ、中傷した相手に対しての詫びも無い。これでは、責任を果たす気持ちなどゼロ、ということであって、こういう人間には「自由」という言葉を使ってもらいたくない。

ということになるわけです。

重要な概念、理念というのは、抽象的なる用語で説明されるものなんですが、
信仰と言い、愛と言い、神と言い、仏さまと言い、あるいはその他、勇気であるとか、正義であるとか、さまざまな概念がありますが、

その正しい意味を、深く理解して使っている人と、

まったくデタラメのトンチンカン誤解している人間が、意味も理解せずに濫用している無知な使い方とでは、

その内容には雲泥の差がある、ということになるでしょう。

深い信仰心を持ち、霊的にも、天界と魂がつながっているような状態の人が語る、信仰、愛、神仏、という言葉の使い方、そこに込められた思いの深さと、

目に見えるモノしか信じないと豪語する唯物論者、無神論者が使う、
愛、神、宗教、勇気、反省、礼儀、信用、などなどの違い。

使っている言葉は同じでも、その言葉に対する理解のレベル、深さが違うので、
片方は非常に深いことを語っているとしても、もう片方はまったく内容の無い無意味な駄弁をしゃべっているだけ、なんていうことは幾らでもあるわけですから、
概念用語の使い方には、よくよく注意するべきだし、知的正直さ、知的廉直さが必要不可欠、ということになるわけでしょう。

なんでもかんでも「自由」ではないんですよ。
自由には責任が伴うわけで、言葉の使い方に関しても、正しく使っているか、間違ったデタラメ理解で狂ったことを述べているか、その厳しい判定は後に成される、ということですよ。

宇宙の法則と言った時にも、それを単なる自動機械的な、神不在で勝手に動いているシステムと解しているのなら、その人は、宇宙の理法に対する理解がひじょうに浅はか、というか、根本のところがまるでわかっていない、という判定をわたしはしますけどね。

そこに、宇宙を統べる神仏の愛、叡智を感じ取り、敬虔なる思いで、この宇宙の存在を思う人とでは、同じく宇宙の法則は … という語り方をしたとしても、その内容においても相当なレベル差があり、思いの深さにおいても段違い、という差があることでしょう。

それが魂の悟り、霊格の違い、ということでもあろうし、神仏の子としての当人の目覚めレベルの違い、認識力の違い、ということでもありますからね。

だいたい、地獄に堕ちて迷うような、エゴ状態の魂であってみれば、
仏神に対する信仰心無し、愛を知らず、叡智の深さも知らず、敬虔なる思いも無し、というのでは、その他あらゆる高次の概念を、それこそ正しく理解している可能性は殆ど無い、というか、
俗人的な生き方をしていればいるほどに、そこに深い精神性は無い、目覚めていない、ということになるわけであって、
目に見えるような即物的なことはわかっても、目に見えない理念であるとか、高次の概念の意味は、その人にはおそらくわかっていないでしょう。

地獄に堕ちた悪霊や悪魔が、神なんて言うのは〇〇だ、とか、愛なんてウソくさい、とか、他人への親切なんて偽善に過ぎない、とか、あらゆることを間違って捉えていて、それで地獄に堕ちている分際で、正しい理念や概念を語れると思うなよ、と言ったところです。

高次元世界に行かないと、抽象的な用語を使っての会話が出来ない、というのは、高次の概念というのは、ひじょうに多くの具体物を内包して中に包んでいる、それだけ豊富な内容を持つモノだからであって、物質的なる個物などよりも、遥かに豊かな内容を実は持っているんですよ。
それが理念、概念というものなわけであって、言葉においては、漢字二文字を使った専門用語のような、単なる抽象単語にしか見えないようであっても、その言葉に込められた意味の深さ、内容の深さは、それを語る人の理解の深さ、その言葉に込められた思いとなって、表現されているのだ、ということを知らないといけないでしょう。

イエスさまが、愛とは〜!
といって語られている時の、その思い、愛という言葉に込めた理解の深さは、いったいどれだけの深さを持っていることでしょうか。

それを聴く私たちは、
表面的に聴いて、はぁー、愛かー、なるほど、と感じ取ったとしても、その人のレベルに応じての、愛の理解でしかないわけであって、

幸福の科学で言ったら、愛の発展段階説という教えを教わっても、
「愛」という単語自体は、次元が違っても同じなわけですからね。

ただその愛の理解の深さが違う、実践におけるレベルが違う、境地が違うということになるわけであって、

たとえば会社で、上司と部下の関係であったとしても、
俺はお前のためを思って説教してやっているんだ、とその上司が言ったとしてもですね。
その上司の指導が、生かす愛のレベルであるのか、それとも実際には、自己保身でしかない、自分の実績重視で、部下は道具でしかないエゴ上司かもしれませんからね。
その場合には、善意の指導のふりをしただけの、しかしてその中身は、奪う愛、本能レベルの人間でしかない、なんてこともあるわけですから、

言葉だけではなく、その意味の理解、正しい使い方をしているかどうか、要は、中身が大切、その人の心の中身が大切、ということですよ。


抽象概念の正しい理解、正しい使い方が出来ているかどうか、というのは、
実践を通して、他者に通じるかどうかを試してみないと、正しく身に備えることは出来ないので、

独りよがりではダメ、わかったつもりになって屁理屈並べてもダメ。

同じように学びを共にする法友と対話するなり、議論するなり、ブログで書いたら、コメントや反応を見て、正しく伝わっているかの確認をするなり、
客観的なる自己判定が必要になってくるわけですからね。

ここが抜けていると、誰にも通用しない、間違った独善的な概念濫用をしている可能性もありますからね。要注意です。

もっとも世間の人はそんなに愚かではありませんから、正しい理解を欠いた、それはちょっと違うんではないか、というような独りよがりの概念乱用すうる人の駄弁には、魅力を感じないし、感化されることもないでしょう。

エセ概念の乱用者の言葉には、光もないし、パワーもない、言霊に力が無いので、説得力や感化力も無い、結果、人気も出ない、という顛末に陥って、
その書き手の未熟を、間接的に悟らせるようになっているのだと、わたしは感じます。
世間の厳しさ、無反応に出会って、自分の未熟を悟ること。
世間の荒波にもまれて、初めて自分を磨くことが出来る、というのは、そういうことでもあると私は思います。

そこでまた、開き直って、自己弁護、自己正当化を図っているようではダメですね。
自分の未熟を思うこと、反省すること、自分に厳しく、というのが、自分を向上させるための鉄則なのであって、自分に甘い人間では通用しないし、進歩もないんですよ。

とうことです。




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レオ記事より掲載 中世ヨーロッパのキリスト教広宣流布

レオ記事より掲載 中世ヨーロッパのキリスト教広宣流布

ガンちゃん まえがき<解説>

日本人の多くが誤解している中世のキリスト教について述べられています。
ヨーロッパの中世と言うと暗黒時代という認識をしている多くの人に対して、真実のキリスト教の素晴らしさと真実の宗教性が語られていると思う。

過ぎ去っていく情報ばかり求めている現代人にとって、ヨーロッパ文明の土台であるキリスト教について一段深い知識を得ることができるでしょう。

以上

↓↓ ここからレオ記事

https://ameblo.jp/space-people/entry-12381508258.html

「紀元前476年に西ローマ帝国が滅びるまでを、西洋史では古典古代と呼びます。
そして15世紀におけるコンスタンチノポリスの陥落、つまり、東ローマ帝国の滅亡までを中世、それ以後を近代とするのが一般的な考えです。」

(「黄金の法」より)

コンスタンチノポリスが陥落したのは1453年なので、ヨーロッパ中世というのは、およそ1000年間あった、という捉え方になります。

で、よくこの期間を指して「暗黒時代」と言うのだけれども、わたしはそうは思わない、ということを述べてみます。

暗黒時代と言うのは、キリスト教・カトリックのドグマに支配され、人間は自由な思考が出来なかった、という観点から見て「暗黒」と言っているわけなのでしょうが、

こういう主張は要するに、中世以前のギリシア・ローマを偉大なる文明とし、それから中世以降、中世から脱したルネサンス以降の近代文明をよし、とする視点から出ているのであって、

そのあいだに挟まれた中世という時代は暗黒であった、というものですね。

けれども、こんな史観がまかり通るということは、キリスト教の全否定をその人はしている、ということになると、わたしは観るんですよ。

なぜなら、キリスト教がヨーロッパ世界に広まっていって、多くのヨーロッパ諸国がキリスト教を精神的支柱とする国家となれたのは、この中世ヨーロッパの時代のお蔭だ、というのが真実だからです。

中世ヨーロッパが存在しなくて、じゃあ、ローマ帝国がずーっと近代直前まで続いて、ルネサンスの復権ならぬ、そのままギリシア・文明が近代ヨーロッパに直結していたらどうであったか、と考えてみたら、

それは、キリスト教精神を欠いたヨーロッパ世界になっていただろうな、と思いますからね。

だいたい、そんな1000年間もの長い期間をすべて「暗黒時代」などと言って抹消したがるような史観は、偏り過ぎている、というだけでなく、歴史の弁証法的発展の意味を見抜けていない、一面的な史観でしょう。

キリスト教は、ローマの末期にローマの国教になりましたが(392年)、それから西ローマ帝国は100年経たずに滅んでいます。
キリスト教による国家建設を行なうに到る以前に滅んでいるわけであって、実際に、キリスト教を母体にして新国家建設を成し遂げようとしたのは、その後、フランス・ドイツの地に出現したカール大帝のフランク王国の方であったと私は思います。

ローマがキリスト教化したことで、古き良きローマの尚武の精神が失われた、だからローマは滅びた、と言われるくらい、キリスト教の広がりがローマを滅亡させた一因と言われているくらいなんだから、
ローマ帝国をキリスト教国家ということは出来ないし、言いたくもない。

それよりむしろ、ローマ帝国の精神は、キリスト教をそのあるがままの姿で受け入れるには、相応しくない異質の文明だったとも言えるわけで、キリスト教が広まってゆく過程において、その精神の担い手は、新たに現れたゲルマン諸国家であるべきだった、というのがヘーゲル的な弁証法歴史観でしょう。

いったん、ローマが滅亡し、中世ヨーロッパという、ゲルマン国家の発展と、カトリック教会を中心としたキリスト教精神の光宣流布が、折り重なり、交わるようにして発展・成長していったのは、善いことだったのですよ。

そういう過程を経て、素朴な蛮族であったゲルマン社会に、キリストの教えという宗教思想が入ってゆき、高次な精神育成の道が説かれ、学ばれていった、というべきで、
その間、ギリシアやローマの文化や遺産がいったん埋もれてしまって、再発見の時を待つまでの数百年、沈黙していたのは、正・反・合の後の合一のためには、必要な過程だったのだと思いますけどね。

中世ヨーロッパの1000年間には、いかにして、キリスト教という宗教思想が、民族のあいだに広まり、国家の精神的柱となり、そしてさらには、個々人の学ぶべき教えとして広まるか、というのがメインテーマの一つだったのではないでしょうかね。

だからこそ、
西ローマ帝国が滅びたのは西暦476年ですが、その帝国の首都にあったローマ・カトリック教会はなぜか滅びず、蛮族の一である東ゴート族の支配下に置かれた後でも存続し、さらには後に現れたランゴバルド族の南下を前にしても生き残り、今に到るも存続しているのではないでしょうかね。

ここを起点として、フランス、イギリス、ドイツ、その他の諸国に、キリスト教は広まっていったわけだし、それは主として教会派遣の伝道師の任務であり、
教会制度の確立と同時に、各地域を担当する司教・司祭の制度も出来上がっていきますしね。
それから在家の有志が作ってゆく、修道院というものも出現してくるわけで、
これは、支部制度や、それと並行しての在家による宗教修行と、人々への導き、という意味では、いまでも学ぶべきスタイルかと思いますけどね。

中世ヨーロッパを暗黒時代という人は、
異端審問による火あぶりや魔女狩りによって、ジャンヌ・ダルクその他の聖者ですら殺された、ガリレオらの科学者の発見をも潰そうとした、そういう一面だけから見て拡大解釈して、暗黒、と言ってるわけであって、
中世に成された善きこと、発展した面、プラスの面をまったく見れてないんですよ、そういう史観の人はね。

だいたい、いまに到るも残るヨーロッパの名門大学が作られたのは、みな中世ヨーロッパの時代のことだそうで、これは渡部昇一さんが尊敬していた歴史家ドーソンの論ですが、見逃してはいけない視点でしょう。

知的探求の場としての大学を設けた、というところに、中世の世界が、人間の知的探求をまったく停止させようとしていた、などというものではなかったことを証明していますしね。
しかもこの大学建設を成したのは、キリスト教関係者なんですよ。宗教が大学を作ったんですからね。

渡部昇一さんは述べています。

中世は暗黒時代といわれているけれども、いまヨーロッパにある有名な大学はすべて、その暗黒時代といわれた時代にできたものです」

ギリシアの時代にアカデミアはありましたけれども大学はありませんでした。ローマ時代にもありませんでした。我々が知っているヨーロッパの主要大学の先祖は、全部中世にできているのです。

(「名著で読む世界史」より)

渡部昇一さんは、カトリックのイエズス会が開学した上智大学の卒業生であり、教授をしていた方なので、カトリック系の外国人教師に学んだこともあって、さすがにキリスト教ヨーロッパ史の理解が詳しく、素晴らしいですね。

キリスト教など他人事と思っているような、無神論者の日本人学者では、このような理解は出てこないでしょう。
ギリシア・ローマ時代賛美、ルネサンス賛美、近代西洋を美化するだけの立場に陥り、そのあいだにあった1000年間もの中世を「暗黒」としか観れないのなら、その人はヨーロッパの弁証法的発展の歴史を、見通すことは出来ていない、と言うしかない。
宗教理解が甘い、ということは、ルネサンスの「後の」宗教改革の意義も、正しく見抜けないということになって、
そうした宗教理解の足らざる、宗教音痴の歴史観では、真の神の世界観は見抜けないんですよ。

キリスト教の、制度や仕組みとしての俗化をもって、全否定してはならないんですよね。
人間が営むさなかに、レベルが堕ちて、本来の精神が見失われる弊害などは、いつの時代、どんな理想の実現にも伴うことであって、
大切なのは、その芯に流れる大本の大理想を見失わないことですよ。

中世ヨーロッパに、キリスト教精神は何を成さんとしたのか。
イエスさまはどのような世界精神たらんことを願っていたのか。
天なる父ヘルメス神は、多くの天使たちをヨーロッパに転生させたはずですからね。

ローマが滅亡する直前に生きたのが、聖アウグスチヌスですよ。「黄金の法」にも生没年が出ていますが、430年に没しています。
キリスト教精神の何たるかを探究し、膨大な著作を残すという使命を果たしながらも、この世的には、最期の時は、ヴァンダル族が攻めよせてくる中で、静かに息を引き取った方ですからね。

街は侵略され、アウグスチヌスの肉体生命は終わったけれども、その精神と著作は現代にまで伝わっているし、カトリック教義の中心になりました。

イタリアに出た聖ベネディクトゥスは、480年に生誕して、修道院制度の創立者になったし、この方が作り上げた会則は、その後のヨーロッパの教会・修道院に受け継がれ、生きているわけです。戒律の父みたいな方でしょう。
ローマが滅亡した(476年)直後に、イタリアに生まれているのがわかるでしょう?

ヨーロッパは、フランク族ほか多くのゲルマン民族の支配下に入り、かつてのローマ帝国の栄光はまったく見失われたかに見えますが、
早くも、481年にフランク王国の王であるクロ―ヴィスは、カトリックに改宗していますからね。
その後、王朝は変わるけれども、このフランク王国の統治者として、さらに後に現れたのがカール大帝(シャルルマーニュ)なわけで、
この人は一説によると、孔子さまの転生という噂があるわけですし、フランク王国の精神的支柱に、明らかにキリスト教を置こうとした人物ですよ。
キリスト教の聖典の写本作成の指示にも熱心だったし、誤字脱字などの誤伝を生まないように、緻密な写本作りを政令まで出して通達したくらいであり、
アーヘンの宮廷で、アウグスチヌスの著作をそばで朗読させるのが好きだった、という伝承もあるので、本気でキリスト教を学んでいた哲人王だった、ということですよね。

そもそも、このカール大帝の父であるピピン三世が、カトリックに土地を寄進した支援者であり、だからフランク王国とカトリック教会の結びつきは、すでにローマが滅びたあと数年にして、すでに実現していた、ということですよ。
(クロ―ヴィス王のカトリック改宗は481年)

カール大帝はしばらく後、742年生まれの方ですけどね。
けれどもカール大帝出現以前にすでに、フランク王クロ―ヴィスがカトリックに改宗していたので、多くのフランク族がカトリック信者になっていたわけですから、着々とキリスト教の普及は進んでいたわけです。

同時期には当然、カトリック側にも優れた法王が何人か出ていますからね。
いなければ、そんな運動が拡大・発展するわけがないですし、
キリスト教の発展のために、光の天使が次々と送り込まれていたに違いないですから。

キリスト教を至上とする神の支配権と、世俗の王権との争いにけりをつけた「カノッサの屈辱」の法王グレゴリウス七世は、ガンジーの過去世だそうなので、光の大指導霊ということですよね。
若い時代には修道院で、徹底した宗教修行を成した方が、法王の座についてグレゴリウス改革を行なったんですよ。

それから、第二回十字軍を主導した聖ベルナルドは、仏教の中興の祖である龍樹の魂の兄弟、という説もあるわけだし、単なる戦いのための戦いを望んだわけではないでしょう。
ベルナルドという方の精神性の深さは、その著書を読めばわかるでしょう。
総裁先生が講演会でおっしゃっていたように、ベルナルドには愛の発展段階説を説いた著作があって、日本語訳もかつては出ていたそうですからね。

それから、十二使徒の1人であるマタイの転生も、法王で出ている、と証言していましたし、
マイトレーヤー大如来も、ローマ法王としての過去世がある、と述べていたでしょう。

カトリック教会の確立と、そこを中心としたキリスト教精神の伝播に、天上界がいかに力を入れていたか、ということ。
そこを見逃してはならんでしょう。と、わたしは思うのですね。

アッシジの聖フランチェスコの偉大なる宗教活動。
同時期に出てきた聖ドミニコの系統から、聖トマス・アキナスが出るんですからね。
トマス・アキナスは、キリスト教の教義と、アラビア世界から逆輸入されて戻ってきたギリシア・ローマの哲学思考を、高度な弁証法的思索によって統合してゆくわけですよ。
それがスコラ哲学ですからね。
トマス・アキナスは13世紀の人、中世の人物ですよ。中世にしてすでに、キリスト教とギリシア・ローマ哲学思考の融合が成されていたわけで、別にルネサンスが訪れるまで、ギリシア・ローマ思想が完全沈黙していたわけではないんですよ。
だいたい、ギリシア哲学やローマ時代の著作を、熱心に書き写して写本をたくさん作り、それを保存し現代に伝えた功労者は、修道院で修行していた修道士たちであったりするわけですからね。
きちんと、中世のキリスト教活動の中に、かつての知の遺産の存続は行なわれていた、と知るべきでしょう。

単に、ガリレオの地動説を封じようとした、ジャンヌ・ダルクやジョルダーノ・ブルーノを火刑にした、なんていう点だけを見て、あるいはキリスト教国家による植民地化を見て、中世のキリスト教ドグマによる弾圧、抑圧、暗黒時代、なんて言ってるようでは、甘い、ということです。
だいたいキリスト教が列強による植民地化の先兵のごとき役割をした、という非難を言うのなら、
中南米のアステカ文明をスペインが滅ぼしたのは、1521年だし、インカ文明が滅ぼされたのは、1533年。
大航海時代が訪れた後の時代の話であって、近代賛美者の大好きなルネサンス時代の後半期の出来事でしょう?近代の問題ではないですか。

キリスト教を非難する以前に、世俗の政治支配論理の矛盾を考えるべきであって、侵略者がいかに正しい宗教精神を持っていなかったか、という洞察をするのなら、問題の根源は別のところにあるはずですよ。
そう、わたしは思うんですけどね。俗物のエセ宗教者が、侵略者と結託した悪行を行なった事実は無論あるでしょう。
けれどもそれによって、キリスト教は侵略主義と重なる、なんていう単純思考をしているようでは理解が浅い、と指摘するしかない。

確かに、キリスト教の教えは、末端に行くほど排他的であり、異説に対して異端判定することは、ローマ末期からありましたけどね。
アタナシウス派とアリウス派の論争とか、ありますからね。中世にも、カタリ派の大弾圧などの武力討伐も行っていますしね。

とはいえ、そちらの方面だけを見て、そこに到るまでの初期の正統の中世ヨーロッパ発展史までも、暗黒であるかのように観るのは間違いでしょう。
アナキン・スカイウォーカーは、子供の頃からダースベーダ―だったわけじゃないんだから、と言ったらわかるでしょうか。
単純に白黒つけるだけの歴史観では、正しい歴史を見誤る、ということですよ。

後に到るほど、純粋な精神は失われ、形骸化し、堕落し、間違った思想が真実の教えを晦ませるようになってしまうのは、キリスト教に限らず、仏教の方でも同じことが起きているでしょう。
要はそういうことなので、草創期から、発展期に到るまでの時代と、その後の形骸化、堕落した時代の混同をしてはいけないのです。



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