2018年06月25日

電気素量(素電荷)とプランク定数の同等性 3次元と4次元を媒介

電気素量(素電荷)とプランク定数の同等性 3次元と4次元を媒介

電気と霊界の関係を考えてみる前に、電気とは何かを簡単にまとめてみます。

電荷
電位現象の基因となる基本的物理量
電子の電荷を−e、陽子の電荷を+eとすると

電荷e.bmp

は電荷の最小単位であって実現されるすべての電気量はeの正負の整数倍である。

電荷には最小単位があり、素電荷あるいは、電気素量といい通常eで表します。
その整数倍が電気量です。
物質の持つ電気量は、構成素粒子の電気量の総和である

hとeの関係について

プランク定数は1Hz(1振動・1回転)の電圧値です。
プランク定数の算出は証明を参照

プランク定数は、電圧値で表現されますから、もちろん電気でありその値は宇宙で最も小さい値であると考えられています。

プランク定数 数値.jpg

素電荷そのものは宇宙における電気現象の根本となる実体ですから、そのようなものを探せば、上記のプランク定数にたどりつきます。

いずれも電気に関する宇宙の最小単位です。
最小単位が2つもあるとは考えにくい(2つあるならば最小単位とはいえない)
プランク定数の本体は、素電気(電気素量)でもあると考えます。

宇宙には、観測にかからない実数に対応する虚数のエネルギーが充満しています。
この虚数のエネルギー、霊的エネルギーと言い換えてもいいと思いますが、電荷が潜在化しています。
霊的エネルギーは静止しているときは現象の変化はおきません。
しかし、虚数に対応する霊的エネルギーが動かされると(渦動)すると反作用で磁気を誘発し、磁気は電気を対発生させます。
この電磁波(光)が宇宙に発生した最初のエネルギーです。

このエネルギーの消費が時間の速さとなり、物質の創生に繋がります。
そして2つの電磁波が相殺されると電気的に中性(0)になります。
(波の山と谷が打ち消しあう)
電磁波が相殺されてもエネルギー保存則がありますので、電磁的エネルギーが消滅したわけではないと思われます。

電磁波が他のエネルギーに変換されたのではないかと考えられます。
電気的に中性のエネルギーがサイエネルギーです。
このサイエネルギーは潜在的には電荷が内在されていますが、顕在化されていません。
渦動したときに初めて反作用で電気が発生し、電磁波が創生されます。

ですから4次元以降のエネルギーが3次元に変換されるときには、電気が発生することになります。

証明
プランク定数の算出の経過(簡略)
物理学読本より
化学反応のエネルギーは、たとえば次のようにして大体分かる。石炭1グラムが8000カロリー発熱するとして、1グラムの石炭が炭素原子6×10^22個含むとすると1原子あたりの発熱は

プランク定数 計算 合算.bmp

である。

(h)を定数として光の粒子のエネルギーをh×振動数とする。波長3000Åとするとh×振動数を化学反応のエネルギーに等しいとして

h=5×10^-12/10^15〜erg・秒となる。

正しい値はh=6.624×10^-27erg・秒である。

算出式の検討

8×10^3は8000の書き替えであり、4.2×10^7は1カロリーをエルグ単位で表している。

8×10^3×4.2×10^7(erg)は8000カロリーを(erg)で表している。
これを1グラムの中に含まれる炭素原子数6×10^22で割ったものであるから答えの5×10-12ergは、1つの炭素原子がどれだけの仕事をするエネルギーを持っているかを表現している。

5×10^-12ergを10^15で割ったものが(h)であってそれは5×10^-27ergであるという。

分母の10^15は次の計算による。 

1Å=10^-8pであるから、3000Åは3×10^-5pである。光速は1秒間にC=3×10^10pで
これを3×10^-5pで割れば10^15です。
これは波長3000Åの光の1秒間の振動数であります。


一つの炭素原子のエネルギーを波長3000Åの光の1秒間の振動数で割ったということは、1秒間に振動するうちの1振動(1回転)した時のエネルギーという意味になると考えます。

∴h=5×10^-27ergは1回転(振動)当たりの値であります。



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posted by ガンちゃん at 01:13 | Comment(0) | 物理・科学・宇宙論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年06月21日

仏教とギリシャの思想の共通性 思想の力で自分自身を変えることができるか

仏教とギリシャの思想の共通性 思想の力で自分自身を変えることができるか

仏教における旗印、三宝印は諸行無情・諸法無我・涅槃寂静です。

諸行無常とは「この世に存在するすべてのものは、流動していくものであり、変転していくもの、変化していくものです。変転変化こそが本質である」という考え方です。

無常とは、冷たいとか悲しいという意味ではなく、「常ならず」という意味で、恒常的なもの固定的なものは存在しないということです。
流動的な立場だからこそ、縁起の理法が成立するのです。
原因や条件によって人生や世界は変化していくということです。

諸法無我は、この物質世界は相互に依存関係にあり実体をもたない仮の存在です。
すべては夢幻であるとする考え方です。

すべての存在は恒常的なものでなく、その存在自体に滅びの性質が内在されています。
滅びはその存在自体にすでに備わっているものであり、滅びていくものと、新しく生まれてくるものは一体であり循環しているものであると考えます。
すべてのものは滅びていく存在であると同時に、新しく生まれ変わってくる存在でもあるので、自性なるもの、自らなる性質はないといえます。

仏教における諸行無常、諸法無我の考え方は、ギリシャのヘラクレイトスの思想に極めて近いと思えます。
ヘラクレイトスの思想は断片的で現在あまり残っていないようです。

ヘラクレイトス 前535頃〜475頃 ギリシャの哲学者
「なにものも有ることなく常に成るのみ、万物は流転する、万物は流れて止まらず」
「万物の根源は火である」というのが彼の思想の核心であり、また「万物は絶え間なく流転する」とも説きました。

プラトンはヘラクレイトスの複雑な思想のなかから、その核心をなすものとして「万物流転」を取り上げました。
プラトンによれば、ヘラクレイトスは、この世界に存在するすべてのものは、一瞬たりとも静止していることはなく、絶えず生成と消滅を繰り返していると主張したと述べています。
「諸君は同じ河に2度足を踏み入れることはできない。なぜなら新しい河水が、絶え間なく諸君に押し寄せてくるからだ。」
このようにヘラクレイトスは述べて、この世界に恒常的なものは何もないと主張したというのです。

プラトンはヘラクレイトスのこの思想を、自分の思想の中に巧妙にとりこみました。
つまり、感覚し得る世界には永遠なるものは何も存在しないということの証拠として万物流転の思想を利用しながら、他方では感覚を超えた知性的な存在としてのイデアを主張したのです。

たとえば火についても、それはアリストテレスが要約したような、静的な原理には留まりません。
火は始原的な要素であり、万物がそこから生じた元のものではありますが、それ自身が不変の実体といったものではなく、絶えず燃えながら変化しているものである。
「火は空気の死を生き、空気は火の死を生き、水は空気の死を生き、土は水の死を生きる」といった具合に、すべてが相互回帰的に循環しながら、流動している。
そこには、戦いのイメージがある。「戦いがすべてのものに共通して見られ、正義であることをわれわれは知らねばならぬ。」

この戦いのイメージは、戦いを通じての統一のイメージとも結びついています。
「対立物の統一」の思想です。
戦いにおいて対立物は調和であるところの一つの運動を生み出すべく結合する。
「万物から一が生じ、一から万物が生ずる」という言葉は、この絶え間なき運動の過程を象徴したものです。
ヘラクレイトスにとって世界とは、もろもろのものがせめぎあいつつ、その動的なプロセスのなかから調和したものや一なるものが生成される、そのようにイメージされていたのです。

統合する対立物というヘラクレイトスのこの思想は、やがてヘーゲルによって血肉化され、弁証法的な思想へと発展していくことになります。

仏教やギリシャ哲学、あるいはヘーゲルの観念論哲学は共通する部分が非常に多いと思います。
存在の本質は変化であるという点で感覚的なものを実体として観察していません。


このような思想の力によって、実際に私達の感情を統御し、心を調和することができるのでしょうか

セネカは怒りについて次のように述べています。
「怒りは厳に慎まねばならない。怒らせた者が同等の力をもったものであろうが、自分より強いものであろうが、自分より弱いものであろうが同じである。同等のものと争うのは危険な冒険だし、自分より強いものと争うのは狂気の沙汰だし、自分より弱いものと争うのは卑劣な根性である。噛みつかれたら、噛みつき返すというのは、哀れむべき小人のなすわざである。」

宗教を真剣に学び実践する人、哲学思想を学んだ者が、日常的なことで感情的になるようでは、学んだ教えが自分のものになっていないということになります。

宗教的な教え、哲学思想を学んだならば自分自身にその学んだ内容が反映されなければ、学んだ意味がありません。


学んだのであれば、その教えの内容を自分の中で整理しまとめあげて自分の意見として、外に向けて発信する必要があると思います。

自分自身の中に取り入れ、それを自分自身の意見として昇華し、外に向けて発信する、これは表裏一体です。

宗教的修行は、神へと通じる険しい道ですから、そこにはやはり努力精進が必要であると思います。


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posted by ガンちゃん at 03:37 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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