人は、自惚れ慢心していると自分のこと以外に考えが及ばず自己中心的になり、相手のことなど眼中になくなります。
相手の悲しみが分かれば、意識しなくとも自然に優しくすることができます。
自分の苦しみ悲しみを通して相手の苦しみや悲しい気持ちが理解できるので、自然体で与える愛の心境になれことができると思えるのです。
相手の悲しみを理解していながら、もっと苦しめてやろうと考える人は滅多にいません。
そのような心境は地獄に通じる道です。
人に対して心から優しくすることができるためには、悲しみを知らなければなりません。
与える愛が大切であると言われ続けてきました。
心から愛を与えるためには、人に悲しさを知らなければ無理なのです。
人の悲しみを知らない人は、与える愛が大切であるといっても、知識のレベルで止まっていて、魂まで届いていないと思います。
相手の苦しみや悲しみに対して、共感できなければ心から愛を与えたいとは思えないはずです。
渡辺昇一氏であったか忘れましたが、その本にはこのように書かれていました。
人はある時、他人に対してかわいそうに見えるときがあるそうです。
それは、相手を自分より低く見ているわけでなく、見下しているわけでもありません。
相手に対して、いろんな辛いことや悲しい出来事を乗り越えて、子供の為、家族のために頑張っているのだろうなと、フッと感じることがあるからです。
自分自身が体験した苦しみや悲しみを通した眼で相手を見るとき、その人も今までの人生で苦しみや悲しみを乗り越えて生きてきたのだろうなと自分自身の体験を通して感じるからです。
自分自身が体験したことですが、夜遅くそば屋に食べに行った時、汚い作業着を着たおじさんが、そばをおいしそうに食べている姿を見て何となく、かわいそうだなと感じた経験があります。
このおじさんも家族の為に夜遅くまで仕事をしているのだろうなと思ったかどうか忘れましたが、同情
心ではなく、明確な理由もわかりませんが、フッとかわいそうに感じることがあるのです。
結局、三次元に生まれてくる意味の一つは、自分が体験した苦しみや悲しみ、その経験を通して人の気持ちを理解できるようになるということにあると思います。
『仏陀再誕』にも書いてあったと記憶していますが、相手に対して本当に優しくなる、あるいは優しい気持ちになる為には、悲しみを知る必要があると思えます。
相手の悲しさを知るからこそ人に対して優しくなり、愛を与えたい気持ちがおきてくるのだと思います。
そして自分自身もまた悲しみの中にある時、守護霊あるいは天使達がきっと見守っていてくださると信じることで、負けるわけにはいかないという気力がおきてきます。
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