幸福の科学の資料を参考にします。
『コーラン』には以下のような内容が説かれています。
第74章(外衣に纏う者の章)、第75章(復活の章)
世界の名著 コーラン 中央公論社 参照
まず一つ目ですが、ムハンマド自身は、生前、無学文盲の人だったので、せっかくの神からの啓示を忘れないようにするために、アラーの神(及び指導霊団)から、説教されていました。
「とにかく何度も復唱・読誦せよ」
と命じられていたようです。
(前述のように、「コーラン」とは、元々「読誦せよ」の意。)
ところが、ムハンマドが、それをしばしばサボっていたのです。
すると、アラーの神が苦言を呈して、
「これ、ムハンマドよ。夜は起きて、勤行(読誦のこと)につとめなさい。夜の時間のうち(半分は寝てもよいが、残りの)半分は読誦をしなさい。
昼間は絶え間なく、俗事があるであろう
ムハンマドよ、主は知っていらっしゃるのだぞ。汝(なんじ)が勤行の時間を三分の二にしたり、半分に削ったりしていることを。
お前がそんなことをしたら、汝に従う信者達も真似する(何事もサボる)ではないか。
お前達の中には、病人もいれば、アラーのために、戦(いくさ)に出ている者もいるであろう。
だから、すべての者に同じように勤行せよと言っているわけではないのだ。
なので、できる範囲でよいから、勤行(読誦)に勤めなさい」と。
啓示を受けとる使命があるとしても、本人の自助努力を大きく超えて啓示を降ろすことはできないことを意味していると思います。
また、啓示の内容も、受け取る側の認識力の広がりに規定されていますので、自力に対応する他力という形になるのだと考えます。
また、別のところでは、ムハンマドが霊言をするときに、とても焦っていたのをたしなめて、
「これこれ、そのように舌をこまかく動かして、急ぐものではない。
(啓示の言葉を)ムハンマドの心の中に集め、お前に詠ませるのは、我々(アラー)の仕事。我らが詠んであげるから、汝はついてくればよいのだ。(その言葉の意味は)後から我らが解き明かしてあげるから」
と、語りかけています。
更に以下は、ムハンマドがお金持ちのドン達と話をしているときに、一人の盲人が寄ってきて、しつこく"イスラム教の信仰"について問いただした時のことです。
ムハンマドがうるさがって、思わず眉をひそめたときに、それを見ていたアラーの神が、ムハンマドを叱った場面です。
「眉をひそめて、プイっとよそを向いたのは、盲(めしい)の男が来たためか?
(あんな乞食(こじき)に説教しても無駄だと信じているようだが)そんな彼とて、お前が熱心に説いて聞かせてあげれば、きよらかな身になって、立派な信者になるかもしれないのに、お前は、そういうことが分からないのか?
何の助けもいらぬ者(お金持ちや身分のある者)には、あれほど関心を寄せるくせに、心から神を懼れる(おそれる)者が寄って来ると、まるで素知らぬ顔とは、一体どういうことなのだ」と。
ムハンマドには、商才のあった方のようなので、ついつい大黒天に関心が向いたのかもしれません。
とはいっても、地上的な身分や金銭の多寡によって態度が違ってくるというのは問題だと思えます。
この点はキリスト教におけるイエス様とは、全く正反対という印象を受けます。
イエス様は、地上の権威に対して戦っていました。
そして、地上的な身分や金銭の多寡によって人間の価値が決まるわけではない。
どれだけ主を信じ(信仰心)愛を与えたか、その愛の質と量が人間の本質的価値を決めるのであるという立場だと私は考えます。
天上界でもキリスト教徒とイスラム教徒は、お互いにそっぽを向いているようですが、エル・カンターレから降ろされた霊示であっても、受け取る側の人間の個性や精進の姿勢によって霊言の内容が違って解釈されてしまうのかもしれません。
「それも大事だけれども、それ以外のことも、同じように大事なのだよ」
と、当時もエル・カンターレから叱られていたようです。
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