2018年05月18日

努力し自己変革する限り有の状態にはなりません

努力し自己変革する限り有の状態にはなりません

ドイツ観念論哲学ヘーゲルの崇拝者で、エストニアの貴族ボリス・ド・イクスキュルという人がいました。もともとロシアの騎兵隊長でありましたがフランス軍との戦いの為、心身が疲労し、戦争による過労をいやすために、軍隊を退いて学問を試みようと考えます。

そしてヘーゲルの著作をなにも読まないうちに、この大先生についたら、短期間のうちに学問の精髄を学び取ることができるであろうと想像し、ハイデルベルクにやってきました。
いよいよ想像に描いていた大先生を訪れることになり、内心はおどおどしながらも外見上は自信ありげな様子で教授のところに出かけていきます。

さぞかし近寄りがたいほど偉大であろうと思っていたヘーゲル先生は、何の飾りけもなく優しく親切に対応してくれました。

そんなヘーゲルに惹かれて講義の手続きを済ませると、行き当たりばったりの本屋に飛込み、ヘーゲルの著書を買い込んできます。
自宅でソファーにでも寛ぎながら、その書物を開いてみましたが、読めば読むほど何を言っているか分からなくなり、たった一つの文書を前にして数時間も苦しんだあげくに、嫌気がさして本を放り出してしまいます。

講義に出てはみたものの自分でノートに書いたことすら理解できずにいましたが、これは予備知識がないからだと考えました。

思い余ったボリス・ド・イクスキュルはヘーゲル教授のところに出かけて行って
「ヘーゲル教授の書物も講義もさっぱりわかりませんがどうしたらよろしいのでしょうか」と尋ねてみました。
ヘーゲルは彼の言葉をじっと聞いて、懇切に指示を与え、準備的な勉強をするためにいろいろと忠告してくれました。

という話が残っています。ヘーゲルの人柄がよくわかるお話です。
ボリス・ド・イクスキュルが軍隊を引退して、哲学を志すと考えたこと自体がすごいことです。
ヘーゲル哲学は難関です。
ヘーゲルを学ぼうとすること自体が称賛されます。

大切なことは、年齢に関係なく何かを学ぼうとする意志です。

人間はいくら年齢を重ねても、思いを変えた時点で人生をやり直すことができます。

仏教では、ある一定の年齢までいくと魂的に『有』の状態になり、今世、地上に生まれて身に付けた傾向性が魂の深い部分までしみ込んで固定化してしまうといわれています。

しかし、自分を変えようとする強い意志と実行力があれば、その人は青年と同じであると思います。

自己変革をするということはヘーゲル的に考えると、自分の内面から、自分を否定し対立するものを生み出し、自分自身の内面における対立関係を克服することによって、いっそう高次の認識段階に進むという弁証法に則って発展していくということだと思えます。

釈迦の本心にも書かれているように、天使や光の指導霊になる為には大変な努力と実績が要求されます。そのような方たちを目指すというのであれば素晴らしいことだと思います。

しかし、現時点で自分がそのような偉大な存在だと勘違いしますと、慢心して相手を見下し努力しなくなり自分自身の進歩がなくなってしまうと思われます。
自分を変えるのに遅すぎることはありませんから、自己規定、限定を克服しながら、努力することで『有』の状態にはならないと信じています。

自分の実力以上に自分を良く見せようとする行為は、自分自身に確固とした自信がなく、光を強く見せようとして、外に向かって自己主張しているイミテーションと同じです。

イミテーションと本物のダイヤモンドでは価値が全然違います。
イミテーションは外に向かって輝きすぎているのです。
外に向かって自己主張する光がイミテーションの輝きです。

本物は内からにじみ出てくるような光です。外に向かって自己主張する光はイミテーションと同じく偽物です。
本物のダイヤモンドは内面からにじみ出るような光です。

目指すべきは、本物の光を放つような自分だと思います。



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posted by ガンちゃん at 02:29 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年05月14日

法を正しく理解することの難しさと苦楽中道

法を正しく理解することの難しさと苦楽中道

釈尊在世の頃、富豪の息子シュローナという者がいました。
贅沢で、甘やかされて育てられてきました。
ある時、釈尊の説法を聞くことによって、今までの自分の人生を悔いて反省し、人生を立て直そうと考えました。
シュローナは、何の猶予もなく人一倍修行に励んだそうです。

インドの仏教では座禅を組むことが日課で、その後に素足のまま歩きまわる(経品)とう修行に入るそうです。
シュローナは、そのような修行などしたことがありませんでしたが、今までの人生の償いをするために人一倍努力されたそうです。
しかし、もともと過保護で育てられた為、その足はたちまち傷つき経行場は血だらけになってしまいます。

それを聞いた釈尊がシュローナを呼び出して次のように問われた。

「汝、琴を弾いたことがあるか」

「家にいたころはよく弾いていました。」

「琴の糸がゆるみすぎたらいい音が出るであろうか?」

「それでは琴がなりません」

「糸を強くしめれば琴はなるであろうか」

「いいえ、それでもなりません」

「どうすれば、よい音がでるであろうか?」

「ゆるからず、強からず、適当に加減してはじめて琴がなります。」

「それと同じように修行もまたゆるすぎず、強すぎず、その度合いが必要である。」
『律蔵大品』
釈尊はシュローナに対して苦楽中道の真理を説かれました。

仏教的な正しさとは中道にあります。
人間はどちらか極端な方向にいきやすいのです。
なぜなら方向性が一定だと楽だからです。

多くの人達は霊的世界に関心が向かず、欲望を満たすために快楽中心の生活を望んでいます。
一方、肉体を非常に苦しめることにより、悟りが得られるのではないかと考える人たちもいます。
しかし、真理は両極端にはなく、両極端を否定した中道にこそ真実の人間としての生き方があると釈尊は説かれました。

仏教は自分を鍛えつつ同時に他の人を教え導くというベクトルの違う二つの方向性を統一していきながら、悟りを目指す宗教です。
弁証法的に自分の人格を向上させ、認識力を高めながら、その悟りの力で周りの人を感化していきなさいという教えです。

中道とは方向性の違うベクトルを統合しながら、認識力を拡大し正しさを追求する考えですから、ほどほどに生きれば良いという意味ではまったくありません。

中道的正しさの実戦的項目が八正道ということになると思います。
八正道は、近現代の哲学とは違い、霊的世界の法則を考慮していますので、八正道を学び実践するということは、この世とあの世を貫く幸福を目指していると同義です。

渡辺照宏氏の『仏教を知るために』という書物の中に「仏は一言をもって法を演説する。衆生、類にしたがって各、解することを得。」維摩経 の解説で、同じブッタの説法を聞いても聞く人によって理解の仕方が違うと解説しています。

美しい果実を見ることによって“自然はすばらしい”と感じる人もいるし、“盗んでやれ”という悪心をおこすものもあるかもしれません。
また、“貧しい人に恵んでやろう”と思う人もいるかもしれません。

説法を聞いても、真理の書籍を読んでも、人によって受け止め方が全然違います。
ブッタの説法は素晴らしいのは間違いありませんが、良い教えをきいてそれを活用するのは、私たちの責任である。と渡辺照宏氏は述べています。

同じように御法話を聞いても、聞いたすべての人が同じように理解しているとは限らないということです。
どのように理解しているかは、各人の理解力や認識力によって違ってきますし、概念の違いによっても変わってきます。

毎日の生活の中で、自分を追い込んでも行けないし、適当にその日暮らしで生きていてもだめです。

自分のできる範囲で努力し、周りに影響を与えることが大切なことであると思います。




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posted by ガンちゃん at 01:45 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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