日本の形式仏教と本来の仏教 四正道の知は仏教的智慧が内包されている
仏教のおける修行の目的は智慧を獲得することにあります。
智慧とは地上的な知識や経験(識)と宗教的な悟り(般若の智慧)です。
識と般若の智慧は両方必要であり、この世的な仕事能力や問題解決能力を磨いて、地上的な悩みや問題を切り捨てることで悪霊の憑依から身を守るということができると言われています。
「世間解」の部分が悪霊の侵入による人格破壊をふせぐ防波堤になります。
本来の仏教が日本に伝わることで、どのように仏の教えが変容したかを渡辺照宏氏の「日本の仏教」を参考にして考察します。
「我が国の仏教教団としては、経典は理解するためのものでなく、儀礼に用いるのが第一義である。まして一般信者の信仰の裏付けとして、例えばキリスト教信者におけるバイブルのように、仏教経典が与えられたことは無かったと言ってよい。ヨーロッパでも一般の信者がパイブルを読むことを禁止されていた。ただ日本ではそうした要求すらなかったので、禁止する必要さえもなかった」
日本民族の特徴がよく表れていると思います。
内容を重視するというより、五感で確認できる儀式や儀礼のほうに意識が向いてしまいます。
日本人は抽象的な概念、観念を理解するのが苦手なのかもしれません。(人によりますが)
形而上学を苦手とする民族であると思います。
本来の仏教は自助努力や精進を重要視し、自己の魂の向上を目指していくと同時に智慧を得ることが修行の目的です。
また、本来の仏教とは自己の向上を目指すと同時に慈悲の心でもって教えを広げていくことであると思います。
「仏教の高い理想を追う人が民衆の、広くいえばあらゆる生き物の幸福を計るということは、仏教の本来の立場から見て当然である。自利利他円満(自己と他人との目的の完成)と上求菩提下化衆生(上に向かっては理想や悟りを求め、下に向かっては衆生を幸福に導く)は言い古されたことであるし、釈迦自信の生活や、その後継者たちの業績をみてもはっきりとあらわされている。仏教における教説や学説も実践の徳目もすべて自他の理想の完成という一点にかかっている。」渡辺氏
慈悲と関連して仏教の特色に寛容ということがいえます。
一神教の宗教では自分の教理と異なるものを異端、邪教と考え悪魔のごとく忌み嫌うことがあります。
しかし、仏教は特殊な教理を人に押しつけることではなく、各自が内面に具えている菩提心をめざめさせて、人間の完成に至るように指導することを眼目とするものであるから、たとえ異なった見解や信仰形態を持っていても一概に排撃することはしません。
信仰形態や見解が違っていても他の宗教に対して寛容だということは、それぞれの対立関係にある宗教同士が理解しあえる可能性を秘めていると思います。
十八界の思想と空の論理
十八界とは人間の感覚器官とその対象の関係に対しての認識です。
第一に眼です。視覚を通して同じような見え方をしたとしても視覚による知覚内容が違うということは同じものを見ているとは言えません
耳です。人間の耳はある一定の周波数の幅を音として確認することができますが、他の動物などは人間が聞き取ることができない音を聞いています。
音もやはり耳の機能に依存した範囲に限定されて聞き取ることになります。
鼻の機能は同じであっても男性と女性では臭いの感じ方が違うようです。
ある種の臭いに対して男性は何とも感じませんが女性は我慢できないということがあるようです。
鼻に関しても感じ方はいろいろということでしょう。
舌ですが、これも舌による感じ方は人それぞれです。
人によって激辛の食べ物を普通に食べる人もいるし、甘いものが好きな人、嫌いな人等、人それぞれです。
身は身体です。神経を通して皮膚はいろいろな感覚を持っています。皮膚感覚も個人によって受け止め方が違うと思えます。
意は意識のことです。
この意に関しては宗教の中でかたっているような奥深いものでなく、五感から集められた情報を判断している頭脳に当たる働きと考えていいと思います。
以上が「眼・耳・鼻・舌・身・意」に関しての説明です。
次に六境(六つの対象)とは、先ほどの感覚器官に対応するもの、その感覚の対象となるものです。
「色」です。眼を通して色彩などを感じ取ります。
「声」です。音や音楽を聞いてそれに対して快・不快を感じることがあります。
「香」です。香りを感じ取ります。
「味」です。舌で感じるものは味わいです。
「触」です。感触を感じ取ります。
「法」です。意の部分でと感じるものは、法です。法は、概念や観念といった抽象的な言葉で語られるものです。
このように「眼・耳・鼻・舌・身・意」という感覚器官の対象を「色・声・香・味・触・法」といい、これを認識の対象領域という意味で六境といいます。
また、六識(六つの認識)とは、肉体に基づく感覚器官とその対象の関係をどのように認識するかということです。
「眼識」
「耳識」
「鼻識」
「舌識」
「身識」
「意識」
「眼・耳・鼻・舌・身・意」の六つの感覚器官(六根)が「色・声・香・味・触・法」という六つの対象(六境)を感じ取り「眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識」という六つの認識(六識)が生じます。
この18個をあわせて十八界と言います。
人間の認識と言っても突き詰めて考えると十八界によって世界を認識をしていると仏教では教えています。
感覚器官で対象を確認できる範囲はものの現象面だけであり、ものの本質までは知ることがゆるされていません。
人間は肉体的制約がありますので、人間が語りえる理性・理念の範囲は、感性的直観を通して経験できる、世界の現象面(本質の一部)に限られてしまいます。
経験を超えた理念を、人間は語ることはできません。
なぜなら、経験を通さなければ、客観的証明として認識できないし、根拠のない空想や妄想と区別することができないからです。
十八界は、感覚器官に重点があり、経験できる範囲に対応する理性認識によって世界観を確立しているといえます。
カント哲学の限界が十八界の限界であると言えるのではないでしょうか
ですから、認識論的に十八界の思想だけでは不十分であるといえます。
そこで仏教では空の思想を強調することになります。
空はと霊的世界を説明しようとする思想です。
ここで「説一切有部」という部派が無我や空の思想を唯物論的な解釈したため、それを打ち砕くために、龍樹(ナガールジュナ)が空の思想を説くことになります。
大乗仏教の中興の祖であり、様々な宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われている龍樹は感覚的なものがはたして実体があるものなのかを問うのです。
実体を規定して、それはまず自立的だといいます。
実体が他に依存して存在することなどありません。実体は常住なものですから、それが他に依存して生じたり滅したりすることはありません。だから自立的であるといいます。自立的であるということは仏教の縁起の理法と対立関係にあるといえます。
縁起とはすべてのものは数多くの原因や条件によって生じるという考え方です。
自立的とは他の物に依存しないで存在するということですから縁起とは対立関係にあります。
次に実体とは、恒常不変だといいます。実体が変転変化したらおかしいということです。
更に実体とは、単一であるといいます。本質的なものが複合的にできているのはおかしので実体とは単一であると定義しています。
実体とは、自立的(縁起によって成り立たつのでなく他に依存しません)、恒常不変(永続すると同時に絶対に変化しない)であり、複合的ではなく単一である。
この三つの条件を満たすことで実体ということを規定するのです。
ところが龍樹によるとそんな世界は言葉の中だけでしかなく、実際には存在しません。
例えば、黒板を例にとってみますと、これは、木材と大工さんとペンキ屋さんなどに依存して生じ、その他のものとの関係においてここに存在します。
だからこれは縁起したものであり、自立的に存在しているわけではありません。
またこの黒板と言われているものは叩き割れば薪になり、燃やせば灰になります。風が吹けばとこかに飛んで消失してしまうもので、決して恒常的でもなければ不変的でもありません。
では単一的かというと、すべてのものは複合的で、黒板という一つの全体性があるわけでなく、黒板はたくさんの部分が寄り集まってできている複合的なものであり、それは決して単一のものとは言えません。部分の最小単位は原子ですが、黒板は無数の原子の集合により成りたっています。
と考えると黒板は複合的に成り立っているといえます。
要するに大きさや広がりをもったものはすべて複合的です。
また龍樹は空の思想を、二つの世界観にまとめています。
この世、物質世界を肯定する、実存主義的な立場を「有」、それを否定しこの世の存在はすべて夢や幻なのだという立場を「無」とするならば、この有と無の両方を否定した中道こそ真理としました。
この世の物質世界、有の立場を「世俗諦」と言い、この世の存在を否定する無の立場を「第一義諦」といい、真実の世界観は世俗諦の中にも、第一義諦の中にもなく両方を否定した中道にこそあると考えました。
世俗諦の立場は実存主義の哲学に近い考え方ですから、この物質世界をいかに効率よく生きていくか、どうすれば自分が幸せになるかと言った自分中心の考え方になりやすいと思えます。
第一義諦の視点から見れば、霊的世界が本質で物質世界は仮の世ということになります。
一般的には、霊的世界を我々は確認することができません。
十八界で説明したように肉体に基づく感覚器官の機能に依存したとらえ方しかできませんので、感覚器官を超えた存在に関しては、カント的にいえば経験を通して確認できないものは客観性がなく理性認識できませんので学問の対象外ということになります。
要するに真実の世界観、仏教的世界観はすべて、自立的でなく縁起したものであり、恒常不変なものではなく、無常で変転変化するもの、更に、単一でなく複合的なものであるということになります。
幸福の科学における知とは、霊的世界観に裏付けされながらも、地上的学問をおろそかにすることなく、両方の観点から自分を知り、相手を知り、世界を知る為の智慧であると思います。
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