2018年03月12日

「ギリシャ・エジプトの古代神 オフェアリス神の教えとは何か」を読んで

「ギリシャ・エジプトの古代神 オフェアリス神の教えとは何か」を読んで

『エルカンターレの法』が説かれる前段階に、主の魂の御兄弟の御霊言が説かれようとしています。

「古代インカの王 リエント・アール・クラウドの本心」
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/456968121.html

大導師トス神の霊言
「アトランティス文明の真相」
「アトランティス文明 ピラミッドパワーの秘密を探る」

「釈迦の本心」「仏陀再誕」「永遠の仏陀」「仏陀の証明」「悟りの挑戦 上・下」「沈黙の仏陀」等

エルカンターレの法を学ぶ姿勢として、主が説かれた法をすべて学んでおく必要があると私は考えています。

更に初期のころに説かれた教えに現代の悟りについて述べられたことがあったと記憶しています。
「現代の悟りとは私達が知りうる限りの過去の歴史で説かれた教えのすべて学ぶ必要がある」。

科学が発達したおかげで生活が便利になった分、私達は過去に説かれたことがなかったほどの真理を学びつくし、それを理解し、自分の言葉で伝えなければならないという修行課題が与えられています。


オフェアリスの霊言を読んだ感想を書いてみます。

「復活」と「全知全能」の信仰をしっかりと打ち立てられたということで信仰心の基礎的土台を築かれた神でもあると思えます。

主は信仰心が大切であるといわれています。
しかし、オフェアリス神は、私達が信仰心、信仰心と言っていますが「信じているもののなかに、この世限りで教わったものがいっぱいある」と述べられています。

ある意味、奇跡が日常的におきない理由は、口では信仰心と言いながら、それが今世学んだ知識の段階で止まっていて魂の奥底にまで伝わっていないということかもしれません。

信仰とは神とつながる行為なので、信仰心をもっていない、あるいはまだ真実の信仰心が確立されていなければ、奇跡は起きないのかもしれません。

そして奇跡は何のために起きるのか。
それは、神の愛する人達を守るためにおきるのが奇跡であるといわれています。
超能力的なことで人を驚かし、自分に関心を向けるために奇跡があるのではなく、神を信じ愛する人達を守るために奇跡がある、そのように述べられていたと思います。

神の愛する人達とは、神を愛する人達のことです

神を愛する人達を神が守りたもう、これが本当に意味における神との契約であるといえます。

ですから、神を信じない、あるいは信仰心がないということは必然的に悪魔の支配下にはいることを意味しているのです。

憲法解釈上、信仰する自由を保障すると同時に信仰しない自由もあると述べている学者さんもいるかもしれませんが、本人が自覚していなくとも地上における地獄領域を拡大し、悪魔の支配下に置かれているといえます。

神に対しての信仰心がないという事実そのもので悪魔の地上における活動領域を拡大していることにつながります。

神の側から見れば、悪魔に支配されても助けることができないことを意味しています。
神を信じない人を神が救うことはできません。
神の存在を信じていないのですから・・・


魔法の始まり魔法の起源についても言及されています。
本来、魔法を使う目的は未来を良い方向に持っていくために使われる、その方向性が大事であるといわれていたと思います。

魔法とは、諸刃の剣であるといえます。
善に向けて使うならば非常に強力な力となりますが、悪い方向で使うならば、人々を恐怖に陥らすことでしょう。

魔法の目的は、良き未来に向けて使われるべきです。

魔法の起源は、イマジネーション、想像することです。
霊界においても知らないこと、思うことができない、想像することができなければ何も実現しません。
想像することができれば、それを念力に変えて具現化できるのかもしれません。

宇宙創造については前回述べています。
霊子4つで素粒子 なぜ4つなのか
http://swedenborg-platon.seesaa.net/article/457654352.html

魂修行からみて現代人は生き方を改める必要性があるといわれています。

パソコンばかりにハマっていた人は、霊界に帰ってからのリハビリが非常に大変だそうです 。
他の高級霊もコンピューターの弊害について述べられていたと思います。

自分で努力しなくとも、簡単に情報を集めてそれを公の場で公表できるのですから、必然的に人間にとって考える力が弱められると思います。

とくに、自分には考える力が何もないのに、コピペだけに頼って情報を発信しているつもりの人もいますが、完全に人間の霊性にとって一番大切な思考力が退化してくると考えられます。
その危険性については、本人が一番わからないのかもしれません。

知らない間に、危機に立つ自分にならないようにしなければなりません。




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posted by ガンちゃん at 02:03 | Comment(11) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月10日

カント哲学で霊的世界を認識できる未来の可能性と仏教の認識論を比較する

カント哲学で霊的世界を認識できる未来の可能性と仏教の認識論を比較する

人間の知覚内容は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。

カント哲学では、人間の理性認識は、五感による経験的認識と対応関係にあります。
私達が客観的認識として確認できる範囲、あるいは、人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。

ですから、五感で認識できる幅が、理性認識の幅を規定することになります。

これがカントの限界であり弱点であると思います。
しかし、この弱点こそ霊的世界を認識できる可能性を内包していると思うのです。

五感を超えた高度な霊能力を有する人達には、上記の理論はあてはまりません。
人間の肉体に付随する感覚器官、五感の制約よる理性認識の限界を、高度な霊的能力を有する人達は感覚器官の能力の制約を超えた理性認識を獲得することができます。

人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって、私達の前に現れてくる可能性があると思うのです。

仮に人間の五感を超えた第六感が開発され、六感が霊的世界を直覚することができるとしたら、経験的認識の幅が拡張され、それに対応する理性認識も拡大するはずです。

しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、現実に対する何らかの基準になると考えるのは正しくありません。

なぜなら、新しい感覚器官を獲得するたびに、現実についての新しい姿が現れてきてしまうからです。

感覚器官は、真理の絶対的な正しい価値基準にはならないのです。

どんな種類の感覚を持ちえたとしても、知覚内容を概念と結びつける思考力がなければ、人間には事物を認識することはできないのです。

感覚器官は実に不確かなものです。
感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうのは過ちのもとであると思います。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違いになります。

一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると考えことは誤りであると思います。



仏教の認識論である十八界の思想を要約します。

六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼の機能・耳の機能というように感覚器官の性質、働きです。

六境(六つの対象)
色・声・香・味・触・法
これは感覚器官に対応する対象をあらわしています。

六識(六つの認識)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
感覚器官とその対象の間の認識です。

肉体に基づく感覚器官と感覚器官に対応する事物、そして、感覚器官に対応する事物との関係をどのように認識するのか。
それが、自分と世界のすべてという思想だと思います。
全部合わせると18個ありますから、十八界といいます。

ここまでは、カントの観念論哲学と類似していると思えます。

しかし、十八界もよく考えてみますと、おかしいと思える点に気がつきます。
感覚器官と対象との関係の認識だとしますと、悟りの高さ、あるいは善人、悪人の違いはどころから生じるのでしょうか
悟りの高さに関係なく、感覚器官の機能や働き自体は善人、悪人に関係なくそれほどの違いがあるとは思えません。

善人でも悪人でも視覚的には、同じ対象を見ています。
同じ感覚器官を通して、同じ対象を見ていながら、認識には大きな違いがあります。
この違いはどこから生じるのでしょうか。

永い転生輪廻によって培われてきた魂の傾向性の違いにあると言えるかもしれません
あるいは概念の違いによる認識の差であると言えるのではないでしょうか。

同じ現象を観察しても、神を信じる信仰者と物がすべてと考える唯物論では、導き出される結論に大きな違いがあるはずです。
両者が霊存在を見たとしても、信仰者は素直にその現象を受け入れ、唯物論者は脳の混乱による幻覚と考えるかもしれません。

仏教的正しい概念とは、両極端を否定した中道であると考えます。
仏教の正しさにおける中道の見かたとは、すべての現象を地上における理性的な判断と霊的世界における正しい価値基準の両方から洞察がなされるべきです。

霊的世界における正しい価値基準とは、仏法真理のことをさします。
霊的現象がたとえわが身におきなかったとしても、仏法真理を深く学ぶことで霊的価値を知ることが可能であります。

霊的価値はカントの純粋理性批判の内容を遥かに超えています。

カントは経験という試練を経たものでなければ客観的認識として確証が持てない、経験的認識がないものは理性認識では判断できませんので、カント哲学は霊に関してはほとんど無力です。

しかし、霊的世界を知悉している者にとっては、地上的経験に関係なく、霊とは実在です。




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posted by ガンちゃん at 13:53 | Comment(2) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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