聖書や仏典を読んでみますと、現代の常識や価値観からみて、とても信じられないような内容が書かれています。
ヘーゲルは「言葉をそこに書いてあるがままに受け取り、言葉や文字を聖書の文字のままに理解するのではなく、その精神を理解しなければならない」と言われています。
観念論哲学最高峰のヘーゲルは、聖書に書かれている霊的現象を否定していない立場をとっていると私は考えます。
精神を理解するとは大事な観点であると思います。
ヘーゲルがいう精神の意味には、神や霊に近いニュアンスをもっています。
絶対精神とは、すべてを創造するキリスト教の神のイメージと重なります。
イエス様が天なる父と呼んだ神とは誰か。
それは旧約聖書に登場するエローヒム、主エル・カンターレを意味しています。
ですから、絶対精神とはすべてをあらしめている造物主の哲学的表現なのだと思います。
仏教には無我という教えがありますが、文字通りに受け取ると、我が無いと書いてありますので、「死んだら終り」という単純な結論になってしまいます。
仏典を全体的に読めば、梵天や悪魔等、霊的な存在が書かれていますし、過去七仏といわれるように前世について、あるいは来世についても書かれていますので、総合的に判断すれば死んだら終りだという結論にはならないはずです。
ではなぜ、地上の人間には霊的なものが理解できないのでしょうか。
理由の一つは、人間に付随する感覚器官では霊的存在を捉えることができない、感覚器官の機能の限界が原因です。感覚器官は霊に対して閉ざされています。
しかし、そのような理由は霊存在を否定する根拠にはなりません。
ルドルフ・シュタイナーは著書『神智学』で以下のように述べています。
「魂界や霊界は物質界の隣にあるのでも、その外にあるのでもない。それらは空間的に物質界から区別されているのではない。手術で眼が見えるようになった人に、これまでの闇の世界が光と色に輝くように、魂と霊とに目覚めた人に、以前はただの物体として現れていた事物が、その魂的、霊的特性を明らかにするのである。魂的、霊的に目覚めていない人にはまったく知られていない様相や存在でこの世界は満たされている。」
また、プラトンの著書『国家』には洞窟の例え話があります。
「生まれた時から洞窟で生活して、体は身動きがとれずに鎖で縛られ、顔は正面にある壁しか見ることができないようにされています。
後方から光がさしてくるのですが、壁に映るのは事物の影であり、洞窟で生活している人は、その影をみて自己を認識し世界を認識しています。
ある時、この洞窟の住人が鎖から解放され、洞窟の外に連れていかれるのですが、外の世界は光り輝く世界であり、色彩豊かで広大な世界が広がっていました。
それを見た洞窟の住人はこのように述べます。
『真実の世界とは色彩豊かで光り輝く美しい世界です。今我々が見ているのは真実の世界(理念)からの投影であり、影にしかすぎません。』
洞窟の仲間に説明しても、だれもまともに話を聞いてくれませんでした。」
シュタイナー、プラトンは霊的世界を知悉していました。
肉体とは魂の洞窟で、私達は理念の影以外に見ることができません。
洞窟のように閉ざされた肉体に閉じ込められた魂は、理念界から漏れてくる光の一部しか感じ取ることができないのです。
つまり、人間の五感といわれる感覚器官が霊的なものに対応されていない閉ざされた状態なので、霊を認識することができないのです。
霊的事物に対応することができる器官が人間に付随していれば、まったく違った世界が展開しているはずです。
肉体はあえてそのように創られているので、そこに魂の進化を促す修業としての課題があるのでしょう。
霊現象がわが身に及ぶのであれば、理性を最大限に発揮して霊性とのバランスをとらなければいけません。
智慧や合理的精神が心を安定させ、自身の霊性を守ってくれると思います。
そして、信仰心で主とつがっていることで他力の救いがあると思います。
霊的現象がわが身に及ぶとは、万に一つのことかもしれません。
万に一つのことではあっても、霊現象が起きることがあります。
霊の声が聞こえる、姿が見える、近くに気配を感じるなど様々ですが、霊の道が開かれると避けて通ることができない問題に遭遇します。
それが悪霊、悪魔の惑わしです。
霊的現象は神秘的で魅力的です。
しかし反面、悪意ある霊からの攻撃に対して無防備であるともいえます。
霊的感覚が閉じているときはある意味で鈍感ですから、さして霊的な影響を受けることもなかったかもしれませんが、開いてしまったら直接的な影響を受けることになります。
天上界からの光の感覚なのか、悪魔の惑わしであり幻惑なのか自分自身で判断しなければなりません。
うぬぼれの心があれば勝つことはできないでしょう。
霊的な体験は主観的ですから、客観的に検証することは難しい問題を含んでいます。
カント的に言うなら、経験できないことは経験認識に対応する理性認識で判断できないということです。
地獄界と地上界は近い距離にあり、相互に影響を与えながら闇の領域を拡大しているといえます。
しかし悪魔には自分の意志で未来をきりひらくことはできません。
悪魔ができることは、地上に起きた混乱や事件に便乗して増幅させるだけです。
ですから人間には地上を天上界にすることができるのです。
そのためには、私達は主の存在を信じ、霊を受け入れなければなりません。
仏教的には神秘性と合理性、これら矛盾対立する二つのベクトルを融合しながら、あるいは、弁証法的に統合しながら両極端を否定した、中道的観点から自分自身の思考や行動をチャックしなければいけないと思います。
もし、霊的現象があったならば、それ以上に知性を磨き、理性的な判断力を鍛えて、霊的現象を静かに受け止めるだけの精神的安定感を持たなければ、その霊的な経験が自分にとっても、周りにとってもマイナスとして働いてしまうことでしょう。
神秘性の部分、霊的現象のみをありがたいと思っていると、いろんなもの振り回されて人生を送ることになると思います。
初めは天上界からのインスピレーションであったとしても、慢心した心があれば、そのインスピレーションも入れ替わる可能性が常にあり、入れ替わったインスピレーションの内容を正しく判断できるだけの知性や理性があるのかという問題も出てくると思います。
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