「人間は、少しずつ固まりながら流れていく液体のようなものである」と言った人がいます。
努力した人と怠けてきた人では、最終的に到達する境地が違うことでしょう。
肉体と言っても単なる物質の塊ではなく、霊的自己の支配下に置かれていますから、年齢を重ねるに従って、目の輝きや顔つきが外見ににじみ出てきます。
優しそうな人がいるとして、その人の人生が楽しいことばかりだったのでしょうか
辛いことがなく楽しいことばかりが人生に起きるはずはないので、見えないところで困難、苦難と戦いのり越えてきたのでしょう。
志をもって日々努力している人は、チャンスをつかんで成功していく人物であると思います。
「チャンスの神様には前髪しかない」と言われていますが、努力している人は、やがてチャンスが訪れて神様の前髪をつかめる人(成功する人)です。
臆病な人、怠け者、志のない人はチャンスすら訪れないのではないでしょうか。
運やチャンスはよく電波に例えられます。
世の中にはいろいろな電波が飛び交っていますが、波長が合わないとラジオが聞こえないように、チャンスにも、常にアンテナを立てて波長を察知しようとしないと、つかむことができません。
IT時代だからこそ、今ほど継続的な努力が必要な時期はないのです。
「点滴石を穿つ」と言う諺があります。
雨垂であっても、長年、同じところに落ち続けると、石にも穴を開けるということです。
常日頃の小さい努力の積み重ねがやがて、大きな結果をもたらすという意味だと思います。
「継続は力なり」ということです。
今の時代、パソコンは各家庭に何台かあると思います。
それによって簡単に情報が入手できます。
世界の情報も家に居ながら知ることが可能になりました。
しかしそれが、魂の向上につながっているのか、魂の堕落になっているのか、個人個人の努力と志にかかっていると思います。
毎日、同じところに訪問して、訪問先で同じように他人の書いた記事をコピーして、それを毎日同じように張り付けて、それが魂の向上につながるわけがありません。
みていて違和感があります。
なぜ、違和感があるのでしょうか。
それは、自分の努力なしに他人の記事を勝手にコピペして自分の記事にし、他人の評価を求めているように見えるからです。
もしかしたら、私の考え方が間違っているかもしれません。
コピペ記事によって救われる人がいるという人もいるかもしれません。
しかし、コピペが正しいとした場合、例えば、総裁先生の本が素晴らしいからといって、真理の書籍を広めなければならないからといって、すべて盗作して安い価格で販売されたらどうなりますか。
確かに、広がるかもしれませんが、それは間違っていると思うはずです。
そして著作権侵害にあたります。
他人の記事をコピペして自分のブログに張り付ける行為とはそれと同じことです。
もし、幸福の科学の情報が知りたければ、リバティWebに直接見に行けばよいだけのことです。
霊言で高級霊もコンピューターの弊害について述べています。
高級霊が述べている以上、自分達で改善するべきところは改善するべきだと思います。
自分のやっていることが守護霊や高級霊が見ているとして正しい行為なのか、間違った行為であるのか自問自答することも正しい道だと思います。
明(みん)の政治家、王陽明(知っていて行わないのは、知らないのと同じであると言った人)は、志について以下のように述べています。
「猫がネズミを捕らえるがごとく、鶏が卵をぬくめるがごとく、それだけに心をこらすこと。それが志である。」
志をもつということは、猫がネズミを狙うことが自然であるように、どんな志をもっているかをもってその人と言えるという意味であると同時に、人生の無駄と思えるものに心を奪われずに、目標に向かって努力精進することだと思います。
自分の行為が誤解され、不当な批判に対しては悔しい思いがするものです。
悔しさをいつまでも思い続けるのは未練である。悔しさを未来に向ければ力になる。
悔しくて腹が立っても、その悔しさを未来に向ければ、自分自身のプラスの力になります。
エジソンが電球を作るにあったて、7000回以上の実験を繰り返しうまくいきませんでした。
スタッフか助手に「もうダメではないですか?エジソンさん、これ以上は無駄ですよ」と言われますが、エジソンは「少なくとも、この方法ではダメだと分かっただけでも進歩だ」と言っています。
人は勝手に駄目だと決めつけますが、努力する人にはどのような結果になろうともプラスになるのでしょう。
宗教教育の必要性に関して簡単に述べてみます。
道徳に関しては、日本の学校教育は情けないほど遅れていると思います。
宗教に至っては、壊滅状態であるといえます。
教える先生自身が宗教的知識や価値観がないので、善悪に対して神仏から見てどうなのかという観点がなく、子供たちに対しても説得力を持ちません。
できれば、子供がまだ小さいうちから道徳と宗教と転生輪廻について学ぶ機会が欲しいところです。
シュタイナーの著書『オックスフォード教育講座』には、魂(心性)の不死について理解させる時のたとえ話の例が書かれています。
対象が9〜10歳です。
教師が魂の不死について、哲学的な講義をしたとしても子供たちは誰もその内容を理解しないでしょう。
教師が次のようなたとえ話を使って話したらどうでしょうか。
『ねぇ、どうやって蝶がさなぎから出てくるか考えてごらん。どんなふうに蝶がさなぎから出て飛んでいくかを考えてみると、きっと君には、何か人間にも当てはまる事が思い浮かぶよ。人間の体を見てごらん、それはちょうど、蝶のさなぎのようなものなのだ。そしてさなぎから蝶が抜け出して飛び去るように、人間の魂は、死が訪れたときに体から抜け出して飛び去るのだ。蝶は目に見えるけど魂は、目に見えないという違いがあるだけなのだ』
福音書にもイエス様が、たとえ話を用いて説法している描写が多数書かれていると思います。
子供たちに身近な例を引用して自分自身で考えさせながら、人間の本質とは何か、霊的存在とは何かを学んでいくことが大切です。
単純に答えを教えるのでなく、自分自身で考え、答えを見つけることで達成感や喜びを感じ取るような話し方が大事であると考えます。
転生輪廻を信じることができれば、自分にどのような困難苦難が降りかかってこようとも、自分の限界を突破する力がでて来ると思います。
ある程度、知識がついてくると効率よく考えて無駄なことをしないようにしますが、エジソンのように周りの人からは無駄に見えたことでも、自分自身の信念で偉業を成し遂げていく人物もいるので、その辺も教育に取り入れたら素晴らしいかなと思います。
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