「正義に合致する宗教は、なにものも抗うことはできない」
と言われた人がいます。
宗教的な人は、善人ではあるのですが外敵に対して戦う遺伝子を持っていない場合があります。
地上は天国とは違うので、善と悪が入り乱れています。
むしろ、神に対しての反対勢力のほうが地上的力を保持しています。
正しいことを実現するには、強さが必要です。
強いからこそ、人に対して優しくできるのです。
福音書でイエス様は言われました。
「目は心の明かりである。」
目が曇っていたら、心も曇っていると思います。
肉体器官の中で、目は霊的自己を映し出す鏡です。
ですから、目が霊的光を宿すまで精進する必要があると思いますが、その過程で精神的強さを培う必要もあります。
アインシュタインは、宗教指導者の残した功績をたたえています。
「科学の探究によるすべての業績よりも、仏陀やモーセやイエスのような人たちの功績のほうが、ずっと大きな意味があります。
人類が人間としての尊厳を守り、生存を確保し、生きる喜びを維持し続けたいなら、これらの偉人達が私達に与えてくれたものを、全力で守り続けなければなりません。」
未知の世界を切り開き、生活を便利にするという意味で科学は素晴らしい功績をのこしています。
しかし、科学の発展と人間の幸福あるいは霊的進化は、完全にイコールではないと思います。
とくに問題なのが唯物論的思考形式の似非科学者達の存在です。
彼らは、実験的に確認できないもの、客観的証明が成立しないものに関して全否定します。
神の意志を否定し、わからないことはすべて偶然に持っていくのが彼らの特徴です。
人間には認識の限界があり、まだ解明されていない多くの問題があるという観点を持っていればよいのですが、神や霊という存在を3次元的材料では証明できないことを理由に、否定し“ない”ということにしてしまいます。
証明できない理由は、神や霊は物質世界を超えた高次元世界の存在だからです。
下次元の物差し(測定機)では、高次元の存在を測りきれないのです。
イエス様は更に言われています
「心をいれかえて幼子のようにならなければ、天国にはいることはできないであろう。
この幼子のように自分を低くするものが、天国でいちばん偉いのである。」
自己中心的な心を押さえて、謙虚な人が天国にはいれる人なのでしょう。
謙虚さがなければ人間はすぐに傲慢になります。
神を恐れなくなるのです。
幼子のようでなければ天国にはいれないという教えの根拠は、波長同通の法則にあります。
デカルトは、「もしも、神を畏れることも来世の期待もないとするならば、悪徳よりも美徳を選ぶ人はほとんどいないでありましょう」と述べています
現代という時代は、神を恐れていませんし転生輪廻も信じていませんから、悪徳のほうが広まっています。
マルクス・アウレリウスも次のように述べています。
「見せかけの微笑を見せたり、心に仮面をかぶったりしない、真心のこもった、裸のままの親切には、人は決して抵抗できないものだ。もしこちらがあくまでも親切を続ければ、たとえ良心の一かけらもない人間でも、必ず受け入れてくれるだろう。」
見せかけ、つまり偽善では人の心を開くことはできないのです。
イエス様の時代にも、あえて人前でお祈りをするような人たちがいました。
外に向かって自分には信仰心があるというアピールです。
イエス様は、誰もみていない部屋で、一人にて神に祈れという意味の言葉を述べていたと記憶しています。
見せかけの信仰心では、何かの事件をきっかけにもろくも崩れていくことでしょう。
自分に自信がないから、表面だけ取り繕うとするのです。
デール・カーネギーは以下のように述べています。
「相手は間違っているかもしれないが、彼自身は自分が間違っているとは決して思っていないのである。だから、相手を非難しても始まらない。避難はどんな馬鹿ものにでもできる。理解することに努めなければならない。賢明な人間は、相手を理解しようと努める。」
自分と考えの合わない人に対しても、少なくとも理解しようと努力する自分にならなければなりません。
しかし、確信犯的に間違ったことをしている人に対しては、厳重に注意する必要があります。
確信犯的に悪を行っている人は、ほとんど人の注意や警告に耳を傾けることはないでしょう。
偽善者と同じで、本心は自分のことしか考えていないのでしょう。
本当の信仰心は、人間を強くします。悪に対して立ち向かう勇気がでてきます。
そして、強い人ほど人に対して優しいのです。
優しい人には、周囲の人が集まってきます。
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