仏教の旗印は三法印と呼ばれています。
諸行無常・諸法無我・涅槃寂静です。
すべての存在は、原因や条件に依存してそれ自体(単一)で存在しているものなどありませんから、すべてのものには実態がないといえます。
また、恒常なもの・形を変えないものはこの物質の世界にはなく、感覚的なものはいつかは時間の流れの中で滅びゆくことになります。
諸行無常ゆえに、すべては時間の流れとともに変転変化していきますので、地上においては定義できるような本質的なものなどないのです。
ですから仏陀は、滅びゆく感覚的なものに執着することで苦しみが生じると説かれたのだと思います。
(仏教の修行論、戒・定・慧を否定しているわけではありません。)
時間縁起、空間縁起の時間と空間の意味を考えてみます。
時間と空間はいまだその本質が明らかにされていないと思えます。
時間と空間は古今東西の謎です。
現在、すべての人に共通する時間を決めることにより、より良く生きていくための基盤としています。私達は時計の時間とともに、1日、1年という単位で生活をしています。
時の長さの単位“秒”はセシウム原子の出す、特定の色の光の周期の9192631770倍であるとされています。
しかし、時計的時間は人間が約束事として決めたことですから、不変性があるとは言えません。
ニュートンはあらゆる観測者にとって一様に流れる時間(絶対時間)を仮定し力学の体系をつくりあげた。
また、現代では時間をエントロピー増大(注1)の法則に結び付けた説明をされています。外部からエネルギーや力を加えない限り、秩序から無秩序へ、使用可能なエネルギーから使用不可の状態のエネルギーへ時間は変化していきます。
(注1)
変化にあずかる系全体のエントロピーは断熱変化では決して減少せず、断熱非可逆変化では常に増大する。熱力学第2法則から導かれる。
相対性理論では相対運動する座標系では時間の進みは遅くなります。
速度が速いほど、加速するほど時間の進みが遅れるといいます。
ただ、私達日常の生活において光速で移動することなどありませんから、考えなくてもよいでしょう。
キリスト教父アウグスティヌスは時間を意識と結び付けて考察しています。
時間の過去、現在、未来について
「過去は私達の記憶・現在は私達の直観・未来は私達の期待」とし時間の主観性を説いています。
観念論哲学のカントは時間と空間を主観的な純粋直観形式としました。
カントにおいては時間と空間は感性的であると同時にアプリオリな直観であり(純粋直観)感性的直観の内容を受容する形式とされます。
純粋とは自分の感情や経験といった主観的なものを含まないという意味で純粋と述べていると思います。
私達が何かを観察するときに時間・空間という形式の中で対象を認識し価値判断します。
時間・空間は私達の主観や感情、経験に一切関係なく存在し、感覚的直観の内容を受容する形式(枠組み)と考えたと思います。
カントにおいては経験や感覚を含まぬアプリオリに可能な認識が純粋な認識とされます。
時間と空間は感性的でありアプリオリなものとして純粋直観といわれています。
アプリオリ(先天的)
アプステオリ(後天的)
幸福の科学的時間論を整理すると以下のようになります。
@時間を同心円状と考えると、中心で根源の神の思いがあり、外側に行くほど時間の幅が長くなる。 次元が下がるごとに時間の幅が長くなる。(時間が遅くなる)
A時間は、意志が表象化するまでの間の期間
B時間とは、存在の運動形式
C時間が流れることによって、空間も霊的存在及び霊界も存在が可能。
D空間の本質とはエネルギーが、稼働するための必要な領域
E時間とは直線的に流れるのではなく、渦のように回転運動をしている。渦の大きさも一様でなく各個人の意識の違いによって、違った大きさの渦の中に存在する。
F時間とは本来はなく、神の側から見たら我々が時間と呼んでいるものの本質は、愛である。
Bの、時間とは存在の運動形式について考えてみます。
我々は現象の変化を通して時間の流れを認識します。
運動形式とは、現象が変化することを意味し、現象が変化するには、エネルギーの作用があるのではないかと考えます。
エネルギーが作用したということは、その作用した分、エネルギーを消費したということであり、時間とは自然界におけるエネルギーの消費を意味するかもしれません。
時間とは、現象の変化、存在の運動形式であり、現象の変化がエネルギーの消費をもたらすとしたら、現象の変化が、激しければエネルギーの消費量も大きく、時間の進み(流れ)も速いはずです。
逆に、現象の変化が、ゆっくりであれば、エネルギーの消費が少なく、時間の進みが遅いと考えられます。
時間とは、人間の意識と結びついているときは、過去、現在、未来は同時存在が可能であると思います。
私達は過去の思い出を振り返るときに、私自身は現在に存在しながら意識は過去の時間と結びついて過去に存在しています。
生物の時間概念は円環的です。
物理的時間に関しては、現象の変化とともに消滅していくものです。
時間縁起、空間縁起は意識を持った人間との関係で成り立っています。
原因・結果の法則は意識を持った人間にあてはまるものであり、縁起とは主体的に自分の意志によって自身を変化されることが可能な原理です。
無我について簡単に整理してみます。
無我とは二律背反する思想でもあります。
説一切有部という学派が釈迦の無我の思想を、実体としての魂、霊というものはく、五蘊の仮和合(色・受・想・行・職)であるとしました。
肉体、感受作用、表象作用、行動(意志の作用)、認識作用これらが仮に和合して人間なるものができており、死んだあとはすべてがバラバラになって雲散霧消して霊気のようななんだかわからないものに拡散していく。と考えています。(法華経信者もこのような考え方をしていると思われます。)
おそらく説一切有部は霊的な認識まで及ばなかったのではないかと思います。
考え方の土台に唯物論的なものがあったのでしょう。
法を体系的に理解していかないとこのような間違いを犯してしまいます。
あれだけ修行の大切さを説かれた仏陀が、無我とは、死んだら終わりであるというようなことを言うはずがありません。
死んで終わりであるなら、八正道とは何だったのだろうとなってしまいます。
修行することで、自分がという考えが薄らいでいくのが中道的修行だと思います。
無我とは、自分に対しては厳しい態度でのぞみ、人に対しては優しく接するような心境だと思えます。
自己中心的考えや自我我欲を捨て去る教えであると思います。
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