2018年02月27日

信仰を否定する左翼唯物論 政治と医療の闇について

信仰を否定する左翼唯物論 政治と医療の闇について

現代の日本には、まだ、信仰を否定する勢力、左翼的唯物論、無神論が根強く国の上層部に生き残っています。

戦後の左翼史観による歴史的教育によって、日本人は悪というレッテルを強引に貼られてしまいました。
その左翼を裏で操っていたのが、旧ソ連のコミンテルンです。

コミンテルンはレーニンの指導によってモスクワに設立された国際共産主義運動の司令塔です。
目的は各国での資本主義の打倒や、階級の廃絶などです。

このコミンテルンが「日本における情勢と日本共産党の任務についてのテーゼ」と題する文書を日本共産党に授けました。(テーゼは運動方針書というような意味)
それ以降、この運動方針書を左翼の人たちは「三十二年テーゼ」と呼んでいます。

この三十二年テーゼは原稿用紙30枚足らずで、わりに短い文書で「天皇制を打倒することが、共産主義革命の最初の課題である。」というように、当時の日本共産党に授けたわけです。

ある評論家は、「この六十数年間、我が国の左翼人、戦後の進歩的文化人、そして現代の反日的日本人、彼らが書き散らした近代日本についての批判は、すべて「三十二年テーゼ」が指示した方向を忠実に守っている」と述べています。

たった原稿用紙30枚程度のテーゼを守ろうとする左翼によって今、日本人及び日本神道の神々も苦しい状況の置かれていると思えます。


マルクス・レーニン主義や毛沢東主義を信じている政治家は学生時代に勉強した自分の考えを否定されたくないのでしょう。

この国の子供たちを育てる教職員たちは、日の丸の国旗や国歌に対して、軽蔑的な言辞を吐き、そして、この国の尊さを自ら否定し、子供達に左翼的唯物論・無神論を教えています。


宗教を信じる者にとって、如来や菩薩、天使といわれる人たちをあざ笑ったり、迫害したり、いじめたりする世の中を断じて肯定することができません。

キリスト教においても、聖霊を汚す罪は許されないと教えているはずです。

今の左翼系のマスコミなど、言論機関を使って主を迫害するなど、いつまでもこんな事が許されてよいわけではありません。

言論機関だけではなく、人間の「死」に対しても同様です。
いろんな分野で、生命とは何かという研究がなされています。
しかし、定義を間違えると大変な悪になり霊的世界を含めて大混乱になり闇の部分が広がってしいます。

臓器移植に関しても、人間の「死」を脳が停止した段階と定義すれば、心臓が動いていようが死んだことにしてしまい、臓器を取り出すというのですから、真実の世界観から見たら野蛮人の行為にしか思えません。

医学にしても実存主義的哲学にしても、現象面、一面というか一部分しか見ておらず、それを全体の本質だと考えるところに間違えの根本的原因があると思います。

プラトンの国家という書物に有名な例え話で洞窟の話があります。
生まれた時から洞窟で生活して、体は身動きがとれずに鎖で縛られ、顔は正面にある壁しか見ることができないようにされています。
後方から光がさしてくるのですが、壁に映るのは事物の影であり、洞窟で生活している人は、その影をみて自己を認識し世界を認識しています。
ある時、この洞窟の住人が鎖から解放され、洞窟の外に連れていかれるのですが、外の世界は光り輝く世界であり、色彩豊かで広大な世界が広がっていました。
それを見た洞窟の住人はこのように述べます。
「真実の世界とは色彩豊かで光り輝く美しい世界です。今我々が見ているのは真実の世界(理念)からの投影であり、影にしかすぎません。」
洞窟の仲間に説明しても、だれもまともに話を聞いてくれませんでした。

大体の内容はこんな感じではなかったかと記憶していますが、唯物論者の世界観とは、まさに洞窟の暗闇の中という限定された空間の中で自分や世界を認識しているのです。

真実の人生観、霊的世界観を知るということは、人間の精神性を高めるうえできわめて大事なことだと思います。

トルストイの『人生論』という書物には次のように書かれています。
「人は理性の意識と、動物的自我をすっかり混同している。しかし、動物的な自我の欲求をいくら満足させたところで、人は幸福にはならないし、したがって生きることにもならないと、理性の意識はくり返し人に教えた〜」
「理性の意識がない動物にしてみれば、本能を満足させ、種族を絶やさぬよう、子を残すのが生活の最高目的なのだ。ところが人間になると、そうした動物的な自我は生存の一つの段階にしかすぎない。その一段上に、動物的な自我とは一致しない人生の真の幸福が認められるのである。」

感覚器官で確認できる世界は、無常であり過ぎ去っていくものです。
目に見えない霊的世界を信じ、主を信じることが人間として生きていく上で最低限の条件であると思います。

人間には信仰の本能があると教えられていますが、人間としての存在が認められる条件はやはり信仰心をもつ、目に見えない尊い存在を信じることだと思います。

カルバンは信仰に対する問答で、洗礼をうける正しい態度とはどんなことですかという質問に、「それは信仰と悔い改めとにあります。」と答えています。

正しい信仰をもつこと、また、主の教えを信じることで自分の過ちを反省し悔い改めることができるようになります。

信仰心がなければ悔い改めの気持ちが湧いてくることはないでしょう。
動物的な生き方、勝つか負けるか、損か得かという精神性のかけらもない泥沼の世界に入り込んでしまいます。




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posted by ガンちゃん at 18:08 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月25日

上位概念の形成 思考の重要性

上位概念の形成 思考の重要性

私達の前に事物が謎めいて現れてきます。
なぜなら、事物そのものの成立過程に立ち会っていないからです。
しかし、思考を通してその成立過程を考察することは可能であります。

私達は観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかし、その知覚内容は無秩序で混沌とした状態です。
思考は、無秩序で混沌とした知覚内容を統一的にまとめる働きをします。

視覚を通して得られる知覚内容には、まだ、意味づけや価値判断が含まれていません。
知覚内容は概念との関係によって、意味づけが与えられます。
意味づけされていない知覚内容を概念と関係づける働きが思考です。

花の概念を認識するには、まず、花の知覚内容を持たなければなりません。
その後、概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味づけを与えていきます。

しかし、観察による知覚内容が増えるに従って最初にあった知覚内容と矛盾と対立が発生します。
知覚内容が広がるにつれて、最初にあった世界像と矛盾が生じ、訂正しなければならなくなります。
概念は、新しい知覚内容に対して意味づけや価値判断ができなくなり、対立が生じてきます。
この対立、矛盾を克服することで新しい概念、上位概念が形成されることになるのです。
対立、矛盾を上位概念で統一的にまとめる過程こそ発展の形式でもあると思えます。

世界は弁証法的運動形式によって発展していきます。

弁証法とは、自己自身の中で自己と矛盾し、自己を止揚し反対物に移行します。
肯定と否定が常に矛盾し、せめぎあいながら対立しています。
矛盾対立を高い総合的観点から統合する運動を弁証法と呼びます。
この弁証法的発展形式によって上位概念が形成されていきます。

「否定の否定」とも言います。
思考の歩みはある思考の規定が自己を否定して、その反対の自己に移行しこの両者の否定が再び否定されることによって解決されるという三段階の進行形式(正・反・合)をとります。
これが否定の否定であり、へーゲルはこれを絶対的否定性と呼んでいます。
これは、単なる否定のための否定ではなく最初の定立とその否定の反定立を総合したより高い否定(止揚統一)です。

知覚内容は概念によって意味づけされ、概念は新たな知覚内容によって高度な概念が形成されていきます。

思考的考察によって対立矛盾する知覚内容を統一できたならば、それは高い段階で一元的に認識できたことを意味しています

知覚内容が多様な現れ方をするのは、身体組織の制約のもとに現れるたんなる仮象にすぎません。
私たちが対象を観察するとき、肉体に基づく感覚器官によって知覚します。
この知覚内容は身体組織の機能に依存した形で知覚されます。
眼の器官、耳の器官は複雑な機能をしているために、神経を通して脳に伝わる間に情報が変化してしまいます。ですから私達は事物をありのままに見ていないのです。


思考は、多様な現れ方をする視覚内容から得られる知覚内容を理念的に止揚統一していきます。
止揚統一を繰り返すことで、高度な概念を形成していくことになります。

一元的に考えるなら、自分の内にある概念も他人の内にある概念も深いところで同じ概念を共有しているといえます。
宗教的には、すべての人に仏性、神性が宿っており、自他はこれ別個にあらず一体なりということです。

自分の内にある概念を深く思考し掘り下げます。その後、掘り下げたその眼でもって相手の概念を見ていきます。

自分の内にある概念を掘り下げたその眼で相手の概念をも見ていくのです。
相手の概念を見たということは、相手を理解したことであり、相手を理解したということは、相手を愛したことと同じです。

愛の根拠は、すべての人に神と同じ仏性・神性というダイヤモンドを有しているからです。
そのダイヤモンドの発現の仕方は様々ですが、同じダイヤモンドを有しているということは、本質的にすべての人間は仏や神の下では兄弟といえます。

ヘーゲルやシュタイナーも概念に対して、同じ意味づけをしていると思います。
ヘーゲルは概念こそ、事物の本質であるとしました。
概念こそ、すべての自然物の本質であり、概念を掴むということは自然そのものと一体化することと同義です。
カントは物自体を認識できないという立場をとったのは、概念と存在を分けて考えたいたため、存在そのものを私達は認識できない、概念が照らし出す存在の一部分、すなわち現象しか認識できないという立場をとりました。

ヘーゲルは概念を認識することは自然そのものを認識したということであり、概念こそ物自体であるので、概念で認識できないものは何もない、これがヘーゲルの概念に対する立場です。

後世の学者で、ヘーゲル哲学を、もはや「人間の哲学」ではなく、神が人間のうちにいて思索しているがごとき、非人間的、超人間的な哲学であると、批判している人がおります。
しかし、これは人間が仏の子であることを知らず、高級諸霊の世界計画を知らない、凡庸な学者の寝言だと言えるでしょう。黄金の法 参照



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posted by ガンちゃん at 21:29 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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