2018年01月22日

家庭における信仰心 主婦の信仰心が国の繁栄の基礎をつくります

家庭における信仰心 主婦の信仰心が国の繁栄の基礎をつくります

信仰のある家庭に生まれて来られること自体、前世の徳である。
お金がなくても徳はある。と真理の書籍に書かれていた記憶があります。

女性に信仰心があり、結婚して家庭を持ち、生まれてくる子供に信仰について語ることができたならば、その子供はすでに幸福を手にしていると思います。

逆に母親がこの世的価値観にどっぷり染まって、唯物論的な考え方に毒されていたとしたら、生まれてくる子供は、なかなか神や仏の教えにふれるチャンス、確率は低くなることでしょう。

ですから、女性が正しい信仰心をもつということが、家庭ユートピアの原点ではないかと思います。
母親の子供に対する影響力は絶大ですから、信仰をもつ女性が増えることが、将来的にも国が繁栄していくための土台になるように感じます。

矢内原忠雄氏は『アウグスチヌスの告白講義』の中で以下のように述べています。
「幼児、とくに母にとって信仰を聞くことのいかに幸福なることであり、たといその時直ちに意識せずとも、人生の風波をこうして、己を難破より救いし無形の力はここにあることを後に到って知る者は少なくない」

幼児が母親から教わった信仰や優しさという無形の力が、子供が大人になる過程で自分自身に降りかかってくる、苦難困難に対して立ち向かっていくための勇気になると説明していると思います。
その時すぐに、子供に理解されなくても、子供はどこかでそのことを覚えているものです。

アウグスチヌスは一時期、マニ教に身を寄せていましたが、母親の説得によってマニ教を邪教として、キリスト教に回心しています。
(マニ教は邪教ではありませんが・・・)

「ありがたいのは母の涙である。マニ教の迷妄がアウグスチヌスの完全なる捕虜となすことを妨げたのは、実はこの涙をもってする母の祈りであった。」と書いていますが、女性(母親)が信仰心をしっかり持っていること自体が、自分のためだけでなく、子供にとっても非常に重要であると思います。

矢内原忠雄氏の見解においても、「素朴ながら彼に(アウグスチヌス)謙虚心をあらしめたものは、幼児において、母から教えられた信仰心と思われる。幼い時から信仰の話を聞かされていることは、大変ありがたいことです。後、躓いたり迷ったりしても、結局、人を暗黒から救いに戻すものは、その信仰心である。」と述べられています。
信仰心をもった女性は、美しいし、子供が人生の苦難に立ち向かっていくための勇気を与えています。

もちろん男性の信仰心も大切ですが、女性の持つ信仰心は子供に将来、大きな影響を与えます。
そして、女性(主婦)の信仰心が家庭ユートピアにとっても非常に大切であると思えます。
家庭ユートピアで育った子供はやがて社会に出てから、大きな影響力を持つようになると信じています。


女性(主婦)が持つ信仰心は、単に自分自身に留まることなく、周りに拡散していく力を内包していると思います。





ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:17 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月20日

中世ヨーロッパの信仰に学ぶ

中世ヨーロッパの信仰に学ぶ

中世ヨーロッパのキリスト教の時代、最も信仰心に対して学ぶべき歴史的人物をあげるとするならば、100年戦争の終わりに生誕された聖ジャンヌダルクではないかと思います。
ジャンヌダルクの処刑裁判や復権裁判など読むと、彼女が命をかけて信仰を守ってきた様子がよくわかります。
真実の信仰とは命をかけて守るべきものだということを学べたと思います。
真実の信仰とはそれだけの重みがあるのです。
信仰という言葉には、その人が生きてきた人生観が彩られます。
何年、何十年と神を信じ真理を探究してきた人の言葉には重みがあります。
それは、相手を説得する光が宿っています。
逆に表面的に生きてきた人が、信仰心について語っても何も感じるものがありません。
自分を飾っているようにしか見えない人がいます。

私達も主を信じ、真理を探究してきたものとして、その発する言葉に光が宿っているかどうかはわかるものです。

ジャンヌダルクには神の威厳を感じさせます。
司教がジャンヌに語る『声』に関して意地悪な質問をしてきます。
ジャンヌは司教に対して、『あなたは、私を裁くものだとおっしゃいますがあなたのなさっていることに用心しなさい。本当に私は神から遣わされているのですから。あなたは、非常な危険を冒しています』とはっきりと述べています。
神を冒涜し、聖霊を汚すことが人間として最大の罪なのです。
そして、神の言葉を伝える預言者に対しても同様です。

また、司教がその「声」とは、天使なのか、直接神から来たものなのか、あるいは聖者や聖女の声なのかと問うと、ジャンヌは『この声は神から来たものです。だから私の知っていることを充分にはお話しできません。あなたに答えないことより、この声の意に沿わぬことをしゃべってしまって声を裏切る方を私は恐れます』ときっぱり司教の質問を退けています。
神や天使、あるいは天上界の価値基準からしたら、地上的権威などまったく関係がないのです。

確かに中性の時代は暗黒時代と一般的には言われていると思いますが、闇だけを見るのではなく、光を見ることが大切です。
中世といっても立派な人は多く存在しました。

スコラ哲学者のトマス・アクィナスもその一人だと思います。

中世は信仰心に関して学ぶべきことが多いのではないのでしょうか。
トマス・アクィナスの著書には、『理性は信仰を完全に説明し尽くすことはできないが、信仰によって得られた認識内容を人々の前にいっそう「明瞭にする」ために役立つ』と書かれています。
目に見えない尊い存在を信じるという信仰心と理性は相反するものではないといえます。

グレゴリウスは『人間理性によって検証されうることならば、わざわざ信仰するに値しない』と言われています。
信仰が地上的なものによって確認できるのであれば、信仰は地上的なものに依存しているといえます。
信仰を地上的学問のように確認しようとする考え方が間違っているのです。

これは人間理性が劣っているという意味ではありません。
霊的存在をも超えた神や仏に対して、肉体に宿った人間理性ではすべてを図ること、あるいは認識することなどできません。
確認することができないからこそ信じる行為が大切なのです。


また、今も昔も神を信じない人たちはこのように言います。
もしも神様がいるならばこの世に悪はないはずだ。しかし、この世に悪は存在する。ゆえに神は存在しない。このような論法で神を否定する人たちがいつの時代でもいます。
トマス・アクィナスは、『このような悪を許容し、悪からさえも善を引き出すことは、神の無限の善性に属している』と述べて神の存在証明をしています。

更に、ヨーロッパ中世末期から近世初頭にかけて、腐敗したローマ教皇側にたいして、マルチン・ルターによる宗教改革がおきます。
ローマ教皇庁の贖宥状の販売による資金集めに抗議しています。
間違った信仰に基づく堕落した宗教に対しては、具体的に宗教改革という形で展開してきました。

そして、英国経験論哲学のジョン・ロック、フランスのモンテスキュー、ジャン・ジャック・ルソーなどが近代政治思想を説いていきます。
ジョン・ロックは「教育に関する考察」等も書いて、ルソーの「エミール」に影響を与えています。
モンテスキューは、「法の精神」が有名です。
三権分立や両院制という考え方をうちだしました。
ルソーは、先ほどのエミール以外に、「人間不平等起源論」「社会契約論」「孤独な散歩者の夢想」などを
書かれています。

現代のヨーロッパには、キリスト教的信仰心に裏付けられた宗教感が国民に根付いています。
ヨーロッパの歴史は、ヘーゲルの「歴史哲学講義」に書かれているように神の世界計画によってつくられた歴史であったと言えるのではないでしょうか。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 14:33 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。