私達が感覚器官を通して認識できる範囲をすべてとする価値観と、目に見えない尊い存在を信じ、人間の本質は霊的自己であり死して後も生命が存在するという価値観が対立したらどちらが優勢でしょうか。
人間は、精神性が高くなるほど神仏を探究したくなるものです。
それは、哲学者であろうと科学者であろうと同じです。
一流と言われる人たちは、神の存在を信じています。
霊的進化論を説いた、アルフレッド・R・ウォーレスという人物がいます。
ダーウィンと並んで自然淘汰説を進化論に取り入れた博物学者です。
実は最近になって、自然淘汰説はウォーレスのオリジナリティであることがわかっています。
更に、ウォーレスはスピリチュアリズム研究もされています。
「われわれが、霊魂と呼んでいるものがすべての意識的存在の核心部であり、身体はそれが他の存在や物体を感識したり働きかけたりするための機械または道具にすぎないという。その道具なしでは生活できないし、その機能による制約はあるにせよ、その根源において、物事に心を動かし、知覚し、思考し、知識を求め、理性的判断を下し、神を崇め、美にあこがれるのは霊そのものなのである。
つまり、人間の人間たるゆえんは、「霊」なのである。
霊こそ人間の心であり、脳や神経は磁気性を帯びたバッテリーであり、電信装置であり、それを手段として霊が外界と接触を保っているのである。」アルフレッド・R・ウォーレス心霊と進化と より
十九世紀の後半あたりからダーウィンの進化論が出てきます。
1859年に『種の起源』という本を出版していますが、この本の中で、種は元来どうしてできたかを説明していると思います。
種はアメーバから高等生物まで連続的に繋がっている。人間は猿の延長線上にある存在という仮説であったと思います。
このような思想のおかげで、キリスト教社会を根底から揺るがす大事件になってしまいました。
アメーバから高等生物まで連続して進化したというのであれば、中間の生物がいなければなりません。
しかし、そのような事実は確認されていません。
高度な精神性を持つ人間は人間として、何万年たとうが基本的存在形式は変わっていません。
猿は猿であり、初めから猿としてつくられているのです。
数行読んだだけで矛盾がある仮設を信じていることの方がおかしいのです。
それから何年か後にダーウィンは『人間の由来』という本を出版しています。
これは人間と動物は連なっているという観点から書かれたものです。
そして、「人間の話す言語」と「動物の発する叫び声」についての相違は本質的なものでなく、程度の差としてあるだけだと言い出します。
つまり、人間の話す言語と動物の発する声は根本的な違いではなく、程度の差だと言っているのです。
このような仮説は科学の名に値しません。
非常に幼稚なレベルであると思います。
これだけでもダーウィンの精神が異常であり病んでいると思えます。
「これだけ人間と動物の精神性の違いに差があるではないか」といっても「それは程度の差であって、何億年すればつながりますよ」という話になってしまいます。
これは、卑怯な言い方です。
何億年後のことなど、現時点で確認できるわけがありません。
あたかも、何億年後の未来を見てきたかのように話されていますが、まったくの根拠がない空想としか言いようがありません。
つまり、進化論は時間さえ膨大にかければ、不可能と思われることでも可能になるという論理ですから、そのうち人間の言葉を話す動物も出てきてもおかしくないという結論になります。
こんな理論はジョークのレベルです。
ダーウィンの進化論が、現代においてかなりの影響力があります。しかしダーウィンの進化論はあくまでも仮説の域を出ていません。
理論が矛盾だらけで、実証されているわけではありませんから。
科学は因果関係を論理的、実証的に証明し、明らかにする学問ですが、進化論はどう読んでも仮設です。
上記のように何億年たったら人間の言葉を話すなどと、いったいどこにその根拠があるのか、非常にあいまいな科学とはとても呼べる代物ではありません。仮設ともよべないのではないかと思います。
霊的進化論を説いたウォーレスはスピリチュアリズム(神霊実存主義)を唱え、「死んだ霊は戻ってきて、しかも物理的にも作用することができる」と確信します。
自然科学の中では、ウォーレスは葬られて、ダーウィンが生き残ってしまいました。
ウォーレスが勝ち残れば、宗教が尊敬され、宗教と科学が融合する可能性が開けていたでしょう。
現代社会が大切なものを失った原因の一つが、このとても科学や哲学とも呼べる代物でない、ダーウィンの進化論なのです。
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