「悲しみと苦痛は、やがて“人のために尽くす心”という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう」とヘレンケラーはいわれました。
人のために尽くす心とは、与える愛の心だと思います。
また、マザーテレサであったと思いますが、「心から血が流れるくらいに人を愛しましょう」と言われていたと思います。
愛が本物の輝きを有するためには、幾多の試練を耐える必要があると思います。
それは、苦難礼讃することではなく自虐的な心でもありません。
悲しさや苦しみを乗り越えた人が、人の悲しさや苦しみを自分のこととして理解できるからです。
聖書には以下のように書かれています。
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように、驚き怪しむのではない、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」
主のために愛を与えようとする行為が誤解され嘲笑されようとも、やがてそれは、自分の頭上をかざる王冠になるのでしょう。(それを求めてはいけませんが)
主は、私たちを愛していると言われました。
ですから私たちも他の人を愛していかなくてはなりません。
聖書の言葉をかりるならば、
「互いに愛し合いなさい。私(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」
愛とは、悲しみ苦しんでいる人、悩みの渦中にある人たちに手を差し伸べたいという思いと行為です。
本当に愛を与えたいという心になるには、試練を耐え抜いてきたという実績が必要です。
ヘレンが言われているように“人のために尽くす心”という美しい花を咲かせる土壌“になるからです。
それは信仰も同じであると思えます。
信仰を手放したいと思うような事件が起きることもあるでしょう。
その時に、信仰心が本物であったのか表面的なものであったのか試されることになるのでしょう。
愛も信仰も美しく花咲かせるためには、苦難や試練を忍耐し乗り越えなくてはいけないと思えます。
天使たちもその姿を見守っていると思えます。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学