2017年12月17日

美しい愛という花を咲かせるには悲しみと試練をのりこえなければなりません

美しい愛という花を咲かせるには悲しみと試練をのりこえなければなりません

「悲しみと苦痛は、やがて“人のために尽くす心”という美しい花を咲かせる土壌だと考えましょう。心を優しく持ち、耐え抜くことを学びましょう」とヘレンケラーはいわれました。

人のために尽くす心とは、与える愛の心だと思います。

また、マザーテレサであったと思いますが、「心から血が流れるくらいに人を愛しましょう」と言われていたと思います。

愛が本物の輝きを有するためには、幾多の試練を耐える必要があると思います。
それは、苦難礼讃することではなく自虐的な心でもありません。

悲しさや苦しみを乗り越えた人が、人の悲しさや苦しみを自分のこととして理解できるからです。

聖書には以下のように書かれています。
「愛する者たちよ、あなたがたを試みるために降りかかってくる火のような試練を、何か思いがけないことが起ったかのように、驚き怪しむのではない、むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど、喜ぶがよい。それは、キリストの栄光が現れる際に、よろこびにあふれるためである。」

主のために愛を与えようとする行為が誤解され嘲笑されようとも、やがてそれは、自分の頭上をかざる王冠になるのでしょう。(それを求めてはいけませんが)


主は、私たちを愛していると言われました。
ですから私たちも他の人を愛していかなくてはなりません。
聖書の言葉をかりるならば、
「互いに愛し合いなさい。私(イエス・キリスト)があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。
互いに愛し合うならば、それによって、あなたがたが私の弟子であることを、すべての者が認めるであろう。」


愛とは、悲しみ苦しんでいる人、悩みの渦中にある人たちに手を差し伸べたいという思いと行為です。
本当に愛を与えたいという心になるには、試練を耐え抜いてきたという実績が必要です。

ヘレンが言われているように“人のために尽くす心”という美しい花を咲かせる土壌“になるからです。

それは信仰も同じであると思えます。
信仰を手放したいと思うような事件が起きることもあるでしょう。
その時に、信仰心が本物であったのか表面的なものであったのか試されることになるのでしょう。

愛も信仰も美しく花咲かせるためには、苦難や試練を忍耐し乗り越えなくてはいけないと思えます。
天使たちもその姿を見守っていると思えます。



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posted by ガンちゃん at 09:54 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月12日

人間の精神性を破壊する唯物論 天使も地獄に落とす嫉妬心

人間の精神性を破壊する唯物論 天使も地獄に落とす嫉妬心

人間の魂を堕落させる考え方あるいは心情に唯物論があり、また、嫉妬心があります。

ベーコンは随筆集の「無神論について」で以下のように述べています。
「少しばかりの哲学は人間の心を無神論に傾けさせる。だが、哲学に深く入れば、人々の心は宗教の方にまた向かうことになる」。
「神がないという方が、都合がよいという人以外には、神を否定するものは誰もいない」

パスカルも神の存在を信じていたと思います。
パスカルは、どうしても神を信じることができない人たちに対して比喩を述べています。
「死後の世界、あるいは神が存在するか存在しないかは一つの賭けである。もし、死んだ後、霊的世界や神が存在しないで無になるのであればそれまでのことである。
しかし、もし霊的世界や神が存在していた場合、これは大変なことである。損得からいっても神を信じている方がよいでしょう」という意味のことを述べていたと思います。
しかし、損得で神を信じた方がよいというのはあくまでも方便であると自分は考えています。

唯物論が蔓延しますと人間はだんだん宗教から遠のいていきます。
苦労や逆境の時、人間は比較的神を信じ、また、宗教を信じることができます。なぜなら、自分の力ではどうすることもできない逆境の時、人間は大いなる存在にすがりたいという気持ちになるからです。

そして唯物論は人間の精神性、高貴性を破壊します。

もし肉体が人間の本質であり、すべてというのであれば、人間と動物の違いに大差はないでしょう。
人間の尊さは肉体にあるのではなく、肉体に宿っている精神、霊的自己にあるはずです。
それは神仏の本質と同じものだからです。
人間に、精神が宿っていなければ下等で卑しい存在になってしまします。



嫉妬はいつも相手と自分自身の比較と結びついています。
比較のないところで嫉妬ということはありません。
また、著しく徳性の高い人に対して嫉妬はおこらないものです。なぜならその幸福はそれらの人たちに対して、ただ当然のように思われるからです。

嫉妬する相手こそ自分の理想像です。しかし、相手に対して嫉妬することにより自分の理想像から離れてしまいます。
自分自身がより優れた存在になろうと思うからこそ、優れた人に対して嫉妬心が起きてくるものです。

しかし、単に嫉妬してしまったあとに来るものは何でしょうか。
相手に対しての否定的な考えです。
私はあのようになりたくないという思いと、憎しみの感情、憎悪と怒りの感情が増幅されていきます。

嫉妬の感情は他の感情に比べて、継続的でしつこいという特徴があります。

「嫉妬に休日はない」といわれるように嫉妬の心は本人から離れることがありません。
嫉妬すると人はやつれていきます。
また、嫉妬は悪魔の固有の特性であるともいわています。
「夜、小麦の間に毒麦をまく嫉妬深いもの」といわれるように、小麦のような良いものに害を与えていきます。

だからこそ、嫉妬は魂の傾向性そのものを変化される働きがあるのでしょう。

嫉妬心の継続性が、魂の傾向性を変化させ天使を悪魔に変化させるのほどの力が働くのでしょう。

しかし、逆に嫉妬心を克服することで魂は一段と成長すると思います。



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posted by ガンちゃん at 01:00 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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