仏教、キリスト教、儒教、道教、イスラム教、ヒンドゥー教、日本神道等、世界には様々な宗教が存在しています。
世界宗教もあれば、民族宗教もありますが、神はその人々を導くために民族に合った教えを説かれたのだと思います。
しかし、それを受け取る側の人間の認識力の狭さゆえに、自分が信じる宗教の教えと違う他の宗教に対して否定的になり、結果、宗教を信じる者同士の争いが生じてしまいました。
その宗教が説かれた時代性あるいは国民性もあるかもしれませんが、宗教を信じる者同士の争いは何かがおかしいと思います。
それぞれの宗教の教えの違いを批判し、共通する教えを通して相手を理解しようとはしませんでした。
それぞれの人が信じている、信仰している宗教の違いを乗り越える共通の価値、普遍的なものは何でしょうか。
それが愛であると思います。
論理的説明はできませんが、肌の色や言語の違い、民族の違い、宗教の違いを乗り越えて人類に共通する価値あるものこそ愛であると信じます。
主・エルカンターレが人類を創造するとき、心に愛を刻印したのだと思います。
あるいは、愛の光によって霊が創造されたと自分は考えます
ですから、本物の信仰心とは命がけであると思えます。
『永遠の仏陀』では、このように述べられています。
「仏法真理のために、その岩壁をよじ登ろうとする努力を、忘れてはならぬ。その岩壁にたらされたるところの一本の命綱を、決して手放してはならぬ。この命綱こそ、信仰とよばれているものなのだ。」とあります。
つまり、信仰とは岩壁によじ登っているほどに危険が伴うものであり、命がけの状況に置かれながらも一本のロープを放さないで、信じてついていくことだと思います。
不退転の気持ちでこの道を一生まっとうしなさい、信仰とは一生を通じて信じきることであると言われていると思えます。
ですから、偽物の信仰は偽善と同じです。
ヘーゲルの「キリスト教の精神とその運命」という書物にこのようなことが書かれていました。
「イエスは、この祈りや断食にあたって、人前でそれとして見せつけるような虚飾的な行為を非難している。とりわけ、祈りの際に、いかにも義務を守りそれを実行しているかのように、取り繕うため、あれこれと言葉を並べたてることを非難している」
いくら人が見ているところで、表面上信仰があるふりをしても、そんな飾りのような偽物の信仰など、風に混ざった埃や花粉のように、ない方が良いという意味で理解しています。
つまり中身が大事であるということでしょう。
中身が大事であるということで、マルティン・ルターは「小教理問答書」という小冊子にこのような我々自身に関して大変参考になることを書かれています。
ある信者さんが、ルターに対してこのような質問をします。
洗礼について、
どうして水が、このような大きな事をすることができますか?という質問に対して
ルターは、「いうまでもなく、水がそのようなことをするのではなく、水と結びつき、水と共にある、神のことばと、水とともにある神のこのような言葉を信じる信仰がするのです。なぜなら、御言葉なしには、水は単なる水であって、洗礼ではないからです。しかし、神のことばとある時に、それは洗礼です」と受け答えをしています。
つまり、形式的なことは、霊的に結びついていなければ、ほとんど意味がないということで、水はあくまで、水でしかなく、そこに霊的な意味を関連付けて考えなければ、ただの抜け殻でしかないということだと思います。
また、誤解されやすいのが、信仰に付随しておきる奇跡についてです。
奇跡があるから信じるという人、奇跡の現象がおきて、それを確認できたから信じるという信者さんもいるかもしれません。
しかし、それは純粋な信仰とは言えないと自分は考えます。
主に対する深い信仰があるから、副次的に奇跡がおきるということで、まず純粋に信じることが先に来なければいけないと思います。
更に、先ほどのヘーゲルの例であげますと、こうように述べられています。
「たとえば、よく子供たちに対して、奇跡などをもとにして『イエスは神である』という結論が与えられたりするが、この信仰をこのような形で学習し、受容することは、およそ「神の啓示」などいえたものではない。そこではたらいているものは、”命令とむち”なのである。これにひきかえ、『あなたにこれを啓示したのは(血肉ではなく)天におられるわたしの父である』ということは、あなたのうちにある神的なものがわたしを神的なものとして認めたということであり、あなたは私の本質を理解したということ、私の本質があなたの本質において、反響(こだま)したということなのである。」
つまり、子供に信仰を説明するにしても、奇跡があるからイエス様が神であるということではありません。それでは奇跡がおきなければ信じないと言っているのと同じです
イエス様の愛の教えに普遍性があり、教えこそがイエス様の本質であって、奇跡は副次的なものです。
また、主の教えに感動する心、仏性があるからこそカンテラとカンテラで照らしあうように、あなたの本質と私の本質がこだましたという意味で理解しています。
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