2017年12月26日

『信仰の法』を読んで2 世界の宗教を同じ土俵に乗せる普遍の価値

『信仰の法』を読んで2 世界の宗教を同じ土俵に乗せる普遍の価値

仏教、キリスト教、儒教、道教、イスラム教、ヒンドゥー教、日本神道等、世界には様々な宗教が存在しています。
世界宗教もあれば、民族宗教もありますが、神はその人々を導くために民族に合った教えを説かれたのだと思います。
しかし、それを受け取る側の人間の認識力の狭さゆえに、自分が信じる宗教の教えと違う他の宗教に対して否定的になり、結果、宗教を信じる者同士の争いが生じてしまいました。
その宗教が説かれた時代性あるいは国民性もあるかもしれませんが、宗教を信じる者同士の争いは何かがおかしいと思います。

それぞれの宗教の教えの違いを批判し、共通する教えを通して相手を理解しようとはしませんでした。
それぞれの人が信じている、信仰している宗教の違いを乗り越える共通の価値、普遍的なものは何でしょうか。
それが愛であると思います。
論理的説明はできませんが、肌の色や言語の違い、民族の違い、宗教の違いを乗り越えて人類に共通する価値あるものこそ愛であると信じます。

主・エルカンターレが人類を創造するとき、心に愛を刻印したのだと思います。
あるいは、愛の光によって霊が創造されたと自分は考えます

ですから、本物の信仰心とは命がけであると思えます。

『永遠の仏陀』では、このように述べられています。
「仏法真理のために、その岩壁をよじ登ろうとする努力を、忘れてはならぬ。その岩壁にたらされたるところの一本の命綱を、決して手放してはならぬ。この命綱こそ、信仰とよばれているものなのだ。」とあります。

つまり、信仰とは岩壁によじ登っているほどに危険が伴うものであり、命がけの状況に置かれながらも一本のロープを放さないで、信じてついていくことだと思います。
不退転の気持ちでこの道を一生まっとうしなさい、信仰とは一生を通じて信じきることであると言われていると思えます。

ですから、偽物の信仰は偽善と同じです。
ヘーゲルの「キリスト教の精神とその運命」という書物にこのようなことが書かれていました。
「イエスは、この祈りや断食にあたって、人前でそれとして見せつけるような虚飾的な行為を非難している。とりわけ、祈りの際に、いかにも義務を守りそれを実行しているかのように、取り繕うため、あれこれと言葉を並べたてることを非難している」
いくら人が見ているところで、表面上信仰があるふりをしても、そんな飾りのような偽物の信仰など、風に混ざった埃や花粉のように、ない方が良いという意味で理解しています。

つまり中身が大事であるということでしょう。

中身が大事であるということで、マルティン・ルターは「小教理問答書」という小冊子にこのような我々自身に関して大変参考になることを書かれています。
ある信者さんが、ルターに対してこのような質問をします。

洗礼について、
どうして水が、このような大きな事をすることができますか?という質問に対して
ルターは、「いうまでもなく、水がそのようなことをするのではなく、水と結びつき、水と共にある、神のことばと、水とともにある神のこのような言葉を信じる信仰がするのです。なぜなら、御言葉なしには、水は単なる水であって、洗礼ではないからです。しかし、神のことばとある時に、それは洗礼です」と受け答えをしています。

つまり、形式的なことは、霊的に結びついていなければ、ほとんど意味がないということで、水はあくまで、水でしかなく、そこに霊的な意味を関連付けて考えなければ、ただの抜け殻でしかないということだと思います。

また、誤解されやすいのが、信仰に付随しておきる奇跡についてです。
奇跡があるから信じるという人、奇跡の現象がおきて、それを確認できたから信じるという信者さんもいるかもしれません。
しかし、それは純粋な信仰とは言えないと自分は考えます。
主に対する深い信仰があるから、副次的に奇跡がおきるということで、まず純粋に信じることが先に来なければいけないと思います。

更に、先ほどのヘーゲルの例であげますと、こうように述べられています。
「たとえば、よく子供たちに対して、奇跡などをもとにして『イエスは神である』という結論が与えられたりするが、この信仰をこのような形で学習し、受容することは、およそ「神の啓示」などいえたものではない。そこではたらいているものは、”命令とむち”なのである。これにひきかえ、『あなたにこれを啓示したのは(血肉ではなく)天におられるわたしの父である』ということは、あなたのうちにある神的なものがわたしを神的なものとして認めたということであり、あなたは私の本質を理解したということ、私の本質があなたの本質において、反響(こだま)したということなのである。」

つまり、子供に信仰を説明するにしても、奇跡があるからイエス様が神であるということではありません。それでは奇跡がおきなければ信じないと言っているのと同じです
イエス様の愛の教えに普遍性があり、教えこそがイエス様の本質であって、奇跡は副次的なものです。

また、主の教えに感動する心、仏性があるからこそカンテラとカンテラで照らしあうように、あなたの本質と私の本質がこだましたという意味で理解しています。



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2017年12月25日

『信仰の法』を読んで その1

『信仰の法』を読んで その1


信仰の法を読んで、他の書籍も参考にしながら思うところを書いてみます。

日本国民は全体的に信仰心が薄いと思えます。それはすなわち人間としての尊厳が薄いという意味です。

日本国内では人権が大事だと論じられていますが、なぜ人権が大事なのかその根拠が非常に不透明であります。
考え方の根本に唯物論的な思考が根強くありますので、何か事件が起きても、被害者よりも加害者の人権を優先的に配慮するというような、まったく善悪の価値判断が逆である判決をします。

日本人が信仰心に対して距離をとる理由は、日本人は権威にたいして非常に弱いところがあるからです。
現代的な知識人は、神や仏あるいは霊的な世界観について、証明できないし、客観性もないので学問的対象の範囲外として、全く無視する形をとります。ですから一般の人たちは、勉強した知識ある人たちがそのような立場にあるのなら、現代はその考え方が正しいのであろうと、「右にならえ」しているだけだと思えます。
神仏を信じていない日本人の大半が、自分で調べたり考えたりせず、みんなが信じていないので自分も信じないというレベルだと感じます。
現代の日本人の信仰心とはその程度なのかもしれません。


カールヒルティが幸福論の中で述べていますが、科学的あるいは哲学的にすべての人が納得する形で証明できるのであれば、信じる必要などないと言われています。
理性的にすべてを知ることができるのであれば、信仰心は必要ありません。
(理性が必要ではないという意味ではありません)

神仏や霊的な世界を三次元的な材料で証明できたとしたら、それは物質的な物差しに依存しているということで、信じるということでなく確認したということになるでしょう。

また、ヒルティはこのようにも述べています。
『世の中に信仰が欠けているわけではない。世間の人たちは自分に都合のよい、信じやすい理屈さえ付いていれば、どんな空想化の説でもやすやすと信じる。』また、『今日ではやはり無数の人たちが最後に狂気に陥った男(ニーチェ)の支離滅裂なご託宣を信じている。彼の思想の奇怪な飛躍ぶりを見れば、彼がそのような病的素質を持っていることは理性的な人であれば誰でも早くから推測できるのである。世間の人はどんな説でも自分たちに都合がよければ、手当たり次第に新説を信じる。』
と言われていましたが、自分の都合が良い時は信じて、それ以外は信じないといったことが信仰の名に値するわけがありません。

これは現代でもあることで、一部の人たちは総裁先生の著書の中で自分に都合のよい箇所のみを引用して、自己の正当化に真理を利用しています。まったく本末転倒です。


インド・ネパールでは一度説法をしただけで80%の人が会員になったと言われています。
基本的に信仰心がある人たちだと思います。
日本人はこれほど本が出版されCDやテープ、その他講演会等たくさんの行事が行われているのに、まだ信じない人の方が多いのです。
以前、講演会で半分以上の国民が信じるようになれば、価値観は急激に逆転すると言われていた記憶がありますが、現在は正念場を迎えているように感じられます。

中世ヨーロッパの宗教改革も現代の参考になるかもしれません。

ヘーゲルの弁証法的に歴史を考察しますと、ルネサンスと宗教改革が必然的に統合され、またロック、モンテスキュー、ルソーなどの政治思想とが融合し、キリスト教的宗教感に裏付けられた流れで近代的ヨーロッパの歴史が作られてきたのではないかと考えます。

中性の時代は暗黒時代だと一般的には言われているようですが、私はそのように考えていません。
立派な人物は沢山います。また、信仰心もしっかりと根付いていたと思います。
スコラ哲学者のトマス・アクィナスなんか本当にすごい方だと思います。

トーマス・アキナスは、『理性は信仰を完全に説明し尽くすことはできないが、信仰によって得られた認識内容を人々の前にいっそう「明瞭にする」ために役立つ』と書いています。
信仰心と理性はお互いに補う関係にあると言えるかもしれません。

また、グレゴリウスは『人間理性によって検証されうることならば、わざわざ信仰するに値しない』と言われています。
これは人間理性が劣っているという意味ではありません。肉体を超えた、あるいは霊的存在をも超えた神や仏に関して、人間理性ではすべてを図ること、あるいは認識することができないので、信じること信じて受け入れること、信仰心が大事なのである。と言う意味だと自分は理解しています。

また、今も昔も神を信じない人たちはこのように言います。
もしも神様がいるならばこの世に悪はないはずだ。この世に悪は存在する。ゆえに神は存在しない。このような根拠で神を否定する人たちがいつの時代でもいます。
しかし、トマス・アクィナスは、『このような悪を許容し、悪からさえも善を引き出すことは、神の無限の善性に属している』と述べています。


聖ジャンヌダルクもすごい方だと自分は思います。
ジャンヌダルクの処刑裁判や復権裁判など読むと、本物の信仰心とはどのようなものか理解することができます。

そしてジャンヌダルクには、神の威厳を感じます。
司教がジャンヌに語る『声』に関してくだらない質問をしてくるのですが、ジャンヌは司教に対して、『あなたは、私を裁くものだとおっしゃいますがあなたのなさっていることに用心しなさい。本当に私は神から遣わされているのですから。あなたは、非常な危険を冒しています』とはっきりと述べています。
神を冒涜することや、聖霊を汚すことがどれほど罪なことかを感じ取ることができます。

また、司教がその「声」とは、天使なのか、直接神から来たものなのか、あるいは聖者や聖女の声なのかと問うとジャンヌは、『この声は神から来たものです。だから私の知っていることを充分にはお話しできません。あなたに答えないことより、この声の意に沿わぬことをしゃべってしまって声を裏切る方を私は恐れます』ときっぱり司教の質問を退けています。

信仰心が大事だと言われていますが、本当に自分が窮地に追い込まれた時にも信仰心を失わないことが大事であると考えます。




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