ヘーゲルの法の哲学には、「哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって」とあり続いて「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」と述べられています。中央公論社 ヘーゲルより
どのような意味かを考えるにあたって、ヘーゲルの歴史哲学講義 岩波文庫を読んでみると、最初におどろかされるのは、その圧倒的な教養ではないでしょうか。そして現実の歴史の中で、隠された歴史の本質を見抜いています。
しかし、本質を見るといっても個々の歴史的事実、事件を無視して、理念のみの抽象概念だけで語られているわけではありません。
例えば、ペルシア戦争やペロポネソス戦争といった現実にあった戦争の中に潜んでいる本質をみています。つまり個々の事件や個別事象を離れた理念や本質ではないということです。
現実からかけ離れた理念は単なる空理空論でしかありません。理念といっても過去のすべての歴史を知った上での理念ということになると思います。
圧倒的な教養あるいは、知識を学びそのうえで、霊的世界にある理想、高次元にある理念を学びつかみ取る。
そして霊的なる真実の価値観や高度な理念から再び、個々の事象に帰ってくる。そうしてこそ、初めて歴史とは、人間の思考錯誤によって築かれたものではなく、神々の世界計画のもとに歴史が自己展開してきたのであるということを、つかみ取ることができるのではないのかと思います。
これが「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という言葉の意味ではないかと思えます。
これは、天台大師が説いた三諦円融と意味においては、同じではないかと思います。
空諦において、この地上におけるすべてのものは、変化しないもの、固定的なものなどありません。
すべては原因と条件に依存しており、定義できるような本質的なもの、実体があるものなどないのです。
ゆえに霊的世界こそ真実の世界であり、この世は仮の世界であるので執着してはいけませんという教えであると思います。
しかし、空諦にばかりに意識がとらわれると、地上における修行の観点がなおざりにされます。そこで仮諦という考え方がでてきます。
哲学で言うところの実存主義に近い考え方かもしれませんが、仮の存在であってもその中に積極的な意味合いを見つける、あるいは人生は一冊の問題集であるという観点でこの世の中を見つめていくという考え方であると思います。
しかし、仮諦にばかりとらわれると今度は、この地上がすべてだという唯物論的な考え方が蔓延してきます。
そこで、霊的な価値基準とこの世の中は修行なのだという観点の両方から現在の自分の有り方を見つめるということが大事であるというのが三諦円融であると思います。
通常、人間は感覚を超えた霊的世界においては、経験を通して知ることはできないし、確認することもできません。それだからこそ信仰心が大事であるということです。
誰が言ったか忘れましたが、「信じることは人間にとって一番、美しい姿である」といった哲学者?がいましたが、目に見えないからこそ信じるという行為がとても大切なのだと思います。
霊的世界があるのか無いのか、五分五分のかけではありますが、信じた方が信じないより得だから霊的世界を信じると言うのであれば、それはそれでも良いとは思いますが、純粋な信仰心とはちょっと違うものがあるのではないかと考えてしまいます。
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