2017年11月05日

現実の中に神の理念をみることができないからこそ信仰心が大切です

現実の中に神の理念をみることができないからこそ信仰心が大切です

ヘーゲルの法の哲学には、「哲学は、理性的なものの根本を究めることであり、それだからこそ、現在的かつ現実的なものを把握することであって」とあり続いて「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」と述べられています。中央公論社 ヘーゲルより

どのような意味かを考えるにあたって、ヘーゲルの歴史哲学講義 岩波文庫を読んでみると、最初におどろかされるのは、その圧倒的な教養ではないでしょうか。そして現実の歴史の中で、隠された歴史の本質を見抜いています。

しかし、本質を見るといっても個々の歴史的事実、事件を無視して、理念のみの抽象概念だけで語られているわけではありません。
例えば、ペルシア戦争やペロポネソス戦争といった現実にあった戦争の中に潜んでいる本質をみています。つまり個々の事件や個別事象を離れた理念や本質ではないということです。

現実からかけ離れた理念は単なる空理空論でしかありません。理念といっても過去のすべての歴史を知った上での理念ということになると思います。
圧倒的な教養あるいは、知識を学びそのうえで、霊的世界にある理想、高次元にある理念を学びつかみ取る。
そして霊的なる真実の価値観や高度な理念から再び、個々の事象に帰ってくる。そうしてこそ、初めて歴史とは、人間の思考錯誤によって築かれたものではなく、神々の世界計画のもとに歴史が自己展開してきたのであるということを、つかみ取ることができるのではないのかと思います。

これが「理性的であるものこそ現実的であり、現実的であるものこそ理性的である」という言葉の意味ではないかと思えます。

これは、天台大師が説いた三諦円融と意味においては、同じではないかと思います。
空諦において、この地上におけるすべてのものは、変化しないもの、固定的なものなどありません。
すべては原因と条件に依存しており、定義できるような本質的なもの、実体があるものなどないのです。
ゆえに霊的世界こそ真実の世界であり、この世は仮の世界であるので執着してはいけませんという教えであると思います。
しかし、空諦にばかりに意識がとらわれると、地上における修行の観点がなおざりにされます。そこで仮諦という考え方がでてきます。
哲学で言うところの実存主義に近い考え方かもしれませんが、仮の存在であってもその中に積極的な意味合いを見つける、あるいは人生は一冊の問題集であるという観点でこの世の中を見つめていくという考え方であると思います。
しかし、仮諦にばかりとらわれると今度は、この地上がすべてだという唯物論的な考え方が蔓延してきます。
そこで、霊的な価値基準とこの世の中は修行なのだという観点の両方から現在の自分の有り方を見つめるということが大事であるというのが三諦円融であると思います。

通常、人間は感覚を超えた霊的世界においては、経験を通して知ることはできないし、確認することもできません。それだからこそ信仰心が大事であるということです。

誰が言ったか忘れましたが、「信じることは人間にとって一番、美しい姿である」といった哲学者?がいましたが、目に見えないからこそ信じるという行為がとても大切なのだと思います。

霊的世界があるのか無いのか、五分五分のかけではありますが、信じた方が信じないより得だから霊的世界を信じると言うのであれば、それはそれでも良いとは思いますが、純粋な信仰心とはちょっと違うものがあるのではないかと考えてしまいます。


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posted by ガンちゃん at 02:52 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

人間の思考内容こそ神仏と同質である

人間の思考内容こそ神仏と同質である

人間の感覚器官とは実に不確かなものです。

眼の感覚器官は、一定の周波数によって波長の長い方から、赤〜紫までの色が光のスペクトルとして知覚されます。
実際はスペクトルの光線領域は赤や紫を超えて拡がっているのに、一定の範囲を超えた周波数ですと眼は光のスペクトルとして知覚することができません。
しかし、その化学作用は認めることはできます。
例えば紫外線は、色として知覚することができませんが、振動数が高い紫外線はエネルギーも高いので、熱量があり運動量もあるでしょう。
これに類似した諸現象の考察によって、次のような観点に行きつくと思います。

人間の知覚世界の範囲は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。
人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって私達人間の前に現れてくると思います。シュタイナー自由の哲学 参照

人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、現実に対する何らかの基準になると考えるのは正しくありません。
なぜなら、新しい感覚器官を獲得するたびに、現実についての新しい姿が現れてきてしまうからです。

シュタイナーは、どんな種類の感覚を持ちえたとしても、知覚内容を思考しつつ概念と結びつけることをしなければ、人間は現実を手に入れることができませんと述べています。

大切なのは、どの知覚内容もそこに潜んでいる現実の一部だけしか与えてくれません。
ですから知覚内容だけでは事物の本質を見抜くことは困難です。


「動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである。」とヘーゲルは述べています。
思考の働き、思考内容こそが神や仏が持つ性質と同質のものであり、思考内容を高度なものにしていくことが、人間が神に近づいていくための修行なのではないかと思います。

我々の前に事物が謎めいて現れてきますが、それは事物そのものの成立過程に立ち会っていないからでありますが、思考を通して初めてその成立過程を考察することが出来るようになるとシュタイナーは言われています。

成立過程は知覚することができなくても、論理的思考を通し考察することで、因果関係を見抜くことができるのではないかと思います。


我々はまず、観察を通して知覚内容を得ることができます。しかしその知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態にあります。そのバラバラで無秩序な知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考の働きと言えます。
知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされるのであろうと思います。

しかし観察による知覚内容が増えるに従って、初めにあった知覚内容と、矛盾対立が生じてきます。知覚内容の範囲が広がるにつれて、これまで信じていた世界像を訂正しなければいけなくなります。新たな知覚内容に対して、今までの概念では意味付けができなくなり、自分の内に対立が生じます。
この対立、矛盾を克服していくことによって新たな概念が形成されていくことになると思います。
対立矛盾を止揚統一していく思考過程こそ魂の進化なのではないかと思います。


このように弁証法的な過程を通して高度な概念が形成されていくのではないかと思います。知覚内容は概念によって助けられ、概念は知覚内容によって高度化していくのであると考えます。

また、感覚器官は不完全な為、総体の中の一面、断面しか確認できなせん。
感覚器官でとらえる現象は変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうのは誤りです。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違いだと思います。
一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると見誤ってはならないのではないかと思います。いずれにしても知覚内容は思考を通して概念と結びつけることなしに、本当の意味で現実を認識することはできないと思われます。花の概念を認識するには、まず花の知覚内容を持たなければなりません。
その後に概念の総体の中から特定の概念を取り出してきて、知覚内容に意味付けを与えていくことになると思います。

人間の思考について深く考えることで、唯物論といった幼稚な考え方に惑わされることは無くなるのではないかと思います。




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posted by ガンちゃん at 00:01 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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