2017年11月14日

全体主義の問題点について

全体主義の問題点について

社会主義の問題点と、その行き着く先を考えて見たいと思います。
全体主義は、個人としての自己責任の意識を希薄にしているではないかと考えます。

聖徳太子の十七条憲法の第十条には次のように書かれています。
「人にはそれぞれ思うところがあり、その心は、自分のことは正しいと考える執着がある。他人が正しいと考えることは、自分は間違っていると考え、自分が正しいと考えることを他人は間違っていると考える。しかし、自分がかならずしも聖人ではなく、また他人がかならずしも、遇者なのでもない。両方とも凡夫にすぎないのである。正しいか、間違っているかという道理を、どうして定められようか。・・・・・他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ過失がなかったかどうかを反省せよ。また自分の考えが道理にあっていると思っても、多くの人々の意見を尊重して同じように行動せよ」中央バックス日本の名著参照。
誠に素晴らしい内容だと思います。しかし聖書でも思想でもそうなのですが、解釈の仕方によってまったく違った意味にとられてしまうことがあります。
例えば、「他人が自分に対して怒ることがあっても、むしろ過失がなかったかどうかを反省せよ」とありますが、外交問題として、先の戦争で日本は、中国を侵略したのだから、中国が日本に対して言うことに何の反論もできないという外交であれば、日本の国益を損なうことになります。
個人としては、すばらしい行為であっても、国と国の関係において、間違った行為になることもあります。

また、「多くの人々の意見を尊重して同じように行動せよ」という内容を、自分の考えや意見が何もなく、ただ全体の流れに逆らうことなく流されていると考えるならば、そこに自己責任の考えはありません。

ハイエクは、倫理的分野における積極的な基準である道徳などや、道徳的原則を維持しようとする真剣さでは、集産主義(社会主義)運動はマイナス影響を及ぼしたと言われています。
そのようになってしまったのは、道徳が個人的行動にかかわることだということを忘れてしまい、社会や制度に責任を転換しているうちに、個人的責任をいう概念が希薄になってきていることを指摘しています。

また、「われわれは自分のふところを痛めることなしに博愛的であろうとすることを許されていないし、自らの選択の余地がないところで博愛的に振る舞ったからといって、どんな価値があるものではない」とハイエクは記しています。
要するに道徳とは個人的なものであり、自らの痛みを伴うものだということです。
ですから「貧しい人に予算をつけなさい」といっている人が税金を納めていなかったら博愛的ではありません。
自分の懐からお金を出すのが博愛的であるということです。
このあたりまえのことが現在、狂ってきていると渡部昇一氏も述べています。
自分の腹の痛まないところで福祉予算を多くするといって、いい気分になっている人が多すぎると指摘しています。
例えば、気が狂れた人間が、誰かを刺したとします。『頭が正常ではないからマスメディアに名前を出していけないし、監獄に入れてもいけない』。そういうことを言うと立派な人だと思われるかもしれません。

しかし、その人自身が刺されてそれをいうのなら偉いと思いますが、自分が刺されていないで、そのようにいうのは偽善です。

これは、本当に天国と地獄がひっくり返った感じを受けて、憤りを感じますが、加害者が法的に守られて、被害者が泣き寝入りするとは、いったい正義はあるのかと言いたいです
しかも、それが法的に正当化されるというのであれば、社会主義は邪教そのものであると言えると思います。

倫理は個人において成り立ち、その為には個人に自由を与えなければならないということだと思います。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:31 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

霊界と哲学のはざまで

霊界と哲学のはざまで

『視霊者の夢』という本を題材にしてスウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関しても霊的世界を認識できない、あるいは客観的ではないので学問的対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する人達に対して、霊的世界や魂の本質を伝えるきっかけがつかめればと考え、わかる範囲で考察してみようと思います。

カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなどです。

スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。

1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグとの対決する姿勢を明らかにしました。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至りました。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。

『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界のように、経験をこえた世界に関して認めてしまうと、カント哲学の崩壊を意味することになります。

カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を認識することができると述べていたと思います。

カントの概念とは、対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができないという立場です。
また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験が確認できる範囲のものに限定されています。
つまり物の本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。

つまり、霊的世界とは経験をこえたところにあり、概念で照らす以前の話になるので、物事を認識することができないという結論になるため、100%信じるというところまではいけなかったのではないかとおもいます。
・・・かといって全面否定をしているわけでもありません。
文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」と述べています。
完全否定するのではなく認めたいという気持ちをどこかに持っていたかもしれません。

しかし反面では、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」とも述べています。

しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることにつながります。

唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。

更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。

この点は難しい議論でありますが、仏教で説かれているように人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しています。
しかし、感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができなくとも否定する根拠にはならないと思います。

スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」とのべたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」
と言われていますが、ルドルフ・シュタイナーも人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。

最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。
物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味である。この内的意味は、人間には知られていない。そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」

つまり、カントとスウェーデンボルグの役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立しているように思えます。
しかし、正・反・合である弁証法によって統合していく観点が必要であると思います。

私は、哲学も最初から霊的世界を否定せずに、霊界は存在し人間の本質とは肉体ではなく肉体に宿る魂であるという観点で理論を組み立てていく必要があると考えます。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 01:50 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。