人間の認識できる世界は、肉体に備わっている感覚能力の範囲内に限定されています。
カントは、人間による理性認識は五感から得られる経験的な認識の範囲に限定をかけてきました。
それを超えた世界に関しては、確認することができないため、客観的に証明をすることができません。
客観的証明が不可能なものは学問として成立しませんから、哲学の対象を人間の認識でわかる範囲に絞り込んでいます。
カント哲学は、観念論哲学といわれていますが、認識の出発点が経験にあるという意味で、完全なる観念論とはいえない面があると考えます。
感覚器官を通して経験的認識と理性認識が対応関係にあるということは、五感を超えた六感や七感が肉体の機能として備わっていたとすれば、我々が体験する世界が全く違った形で展開する可能性もあるということです。
シュタイナーは自由の哲学のなかで、次のように書かれています。
「経験人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって現れてきます」
人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。
ですから身体組織の制約を受けた知覚内容が、絶対に正しい価値基準と思うところに、認識の過ちが潜んでいるのかもしれません。
どの知覚内容もそこに潜んでいる現実の一部だけしか与えてくれません。
つまり、感覚器官を通して入ってくる情報は断片的なものであり、事物の本質を知ることができないのです。
私達は、観察を通して知覚内容を得ることができます。
しかしその知覚内容は、無秩序で整理されていません。
そのバラバラで無秩序な知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考の役割です。
知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。
概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされます。
しかし真実の世界は、カントがいう感覚器官を通して経験できる範囲の先にあるものです。
それが、宗教です。
宗教とは、目に見えない神仏について語り、神仏の説かれる法を語り、人々を霊的世界に導く力でもあります。
真実の宗教は、愛の教えを説きます。そして自分が犯した過ちに対して反省を説きます。
なぜでしょうか。
それは人間の魂は偶然に発生したものではなく、仏や神の愛によって創られた存在であるからだと思うのです。仏や神の慈悲(愛)によって誕生し、生かされている存在であるからこそ、人間にとって一番大切なものを最初に学ばなければいけません。
それが、「愛の教え」だと思います。
しかし、肉体に宿った魂は感覚器官の制約を受けていますから、神や仏の存在を手に取るように確認することができません。
だからこそ人間には、尊い存在に対して謙虚になり信じることができる本能というべきもの、信仰心が与えられているのだと思います。
人間が人間である理由は、「五感で感知できるもの以上の尊いものを理解し、それに基づいて行動できるという点にあります。この本能が人間を人間あらしめているのです。」繁栄の法より
尊いものを信じることができる信仰心は、人間にとって哲学以前の根本論ですので、正しい宗教を信じ、その教えに基づいて自分を統御し、行動するという行為は、哲学を包含しつつそれを超えたものであると自分は思います。
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