以前、ある宗教指導者が来日した時、「人はなぜ、殺してはならないのか」ということを質問した番組がありました。
その宗教指導者は、その質問に対してまともに答えることができませんでした。
なぜ、様々な宗教、思想、道徳、法律において「人を殺すことなかれ」ということが是認されているのでしょうか。
人類の歴史をみる限り、その教えに反し、人は戦争を中心として、人間や動物を殺してきました。
この世的に納得のいく説明をするならば、人間も動物も同じ生物体であって、種の保存が共通の命題であり、種の保存なくして、生存も、繁栄もありえないということになります。
もう一方では、同じく種を保存するという目的のために、現実的には政治あるいは軍事レベルにおいて、他を殺すという動きがあります。
不思議なことですが、この二律背反したものが種の保存という同じ命題のために起きてきています。
民族を保存するために、他の者と戦い、殺すことがある程度認容されるとしても、大きな観点から釈然としないものが残ることも事実です。
ですから、異なる者同士でも共存、繁栄していけるように、調整の原理が様々に働いてきました。
(国際政治・国際経済・国連組織の活動等)
さらに思想においては「殺すなかれ」という教えの普遍化があり、また、根源論としての「唯一の神から現れた人類」「人々は神の子・仏の子である」という思想が、人類をともに愛し合い育みあうためのバックボーンとして説かれてきました。
近現代の科学技術の発展は、唯物論思想に裏打ちされています。
マルクス主義が滅びかかっていても、科学で生命の根源を探求し、魂にあたるものをDNAの存在と解釈し、科学者の手によって、命さえつくることができるというような実験も行われているようです。
科学的分析は大事であると思いますが、人間は動物の進化系であり、タンパク質と神経作用の集まりであるという考えを是とし、それのみが真実であるとするならば「殺しあうなかれ」という教えも、機械として壊さないようにしようという程度の話になってしまいます。
殺人罪と器物損壊罪に差がないことになってしまいます。
科学の進歩そのものが、決して人間の人生の質や存在感、あるいは値打ちを高めることにならないことに充分に注意していかなければなりません。
結局「人を殺すなかれ」という教えを追及していくと「人とは何であるのか、生命とは何であるのか、人生とは何であるのか」という根本にいかざるを得ないと思います。
その根本の現象として現れた肉体を超えるものを、認めるか否かが大きな分かれ目だと思います。
「肉体的、物質的に現れたるもの以外は認識できず、それ以上のものについては議論しない」という立場をとるならば、所詮、愛の教えでも「殺すなかれ」の教えでも、この世を生きやすく生きるための便法にすぎないことになってしまいます。
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