十八界を要約します。
六根(六つの感覚器官)
眼・耳・鼻・舌・身・意
眼の機能・耳の機能というように感覚器官の性質、働きです。
六境(六つの対象)
色・声・香・味・触・法
これは感覚器官に対応する対象をあらわしています。
六識(六つの認識)
眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識
感覚器官とその対象の間の認識です。
眼で見てその対象がなんであるか判断したり、耳で聞いた音等を判断したりします。
すべて合わせて18個あるので十八界と言います。
人間は複雑な思考をしますが、突き詰めて考えてみますと感覚器官から入った情報をどのように処理するかによって世界を認識しています。
人間は対象を、概念あるいは価値観と結びつけて事物を認識し判断します。
視覚的には同じように対象を見ていると思いますが、視覚を通して得た知覚内容が違うので、同じものを見ている、あるいは同じような認識をしているとはいえません。
近現代では、主観を排してできるだけ物事を客観的に見るか、自分の感情を入れないでどれだけ対象や事物を共通認識として理解するかが重要であるとされています。
しかし、先ほど述べましたように我々は肉体に基づく感覚器官の機能に依存した世界を見ているはずです。
(大哲学者であるヘーゲルのように、透徹した思考で事物の中に感覚を超えた理念をみる人がいますが通常は無理)。
例えば、舌の感覚が今とは違う機能であれば砂糖を甘いと感じないかもしれませんね。
私達は、砂糖の本質を甘いと思っているかも知れませんが、実は舌の機能と砂糖の関係を甘いと認識しているだけであって、砂糖という物質が本来、甘いのかどうなのか定かではありません。
私達が通常認識している色に関しても本来はどのような色を事物がしているのか定かではありません。
光の一定の周波数を分子が吸収し、それ以外の振動数は分子に吸収されず弾かれてしまいます。
反射したその振動数の違いで”赤”とか”黄”とか色を識別していますが、実際に対象物が本当に赤なのかどうかは、わかりません。
夜、電気を消せば、真っ暗でよく見えません。
本質的に色があるならば、暗がりの中でも色を識別できるはずです。
私達は肉体に基づく感覚器官の性質機能に依存した主観の世界で生活しているかもしれません。
法華経の信者達は『南無妙法蓮華経』を唱えれば救われると信じています。
法華経の信者さんと一般の人達は、間違いなく違う世界の中で生活しているはずです。
肉体の機能は同じであっても、対象を同じようには認識していないと思います。
そもそも日蓮聖人がいた鎌倉時代の人たちは、苦しく貧しい生活を強いられていたと思います。
ですから、南無妙法蓮華経を唱えれば救われるという教えも一種の方便としてあり得たと思えます。
苦しみを一時預けるという意味で役に立ったかもしれません。
しかし、鎌倉時代と現代とでは、時代背景が違うし、一般的教養を身につけているが現代人です。
ですから、南無妙法蓮華経を唱えれば救われると言われても、納得できないところはあります。
逆に南無妙法蓮華経で人生が変わると信じられるのであれば、それはそれでよいと思いますが、日本人には通じるとしても、世界の人達はどのように考えるのだろうかと推測しますと、そこには普遍性がないのではないかと思えます。
十八界という思想はどうでしょうか。
人間の肉体構造は、現代も数万年前もアトランティスの時代、ムーの時代も感覚器官を通じて事物を認識するという基本パターンは変わらないと思います。
ですから、数万年前も現代でも十八界という考え方は通じると考えます。
時代や大陸を超えて通じるという意味で、十八界の思想には普遍性があると言えます。
南無妙法蓮華経とはどのような意味でしょうか
南無は帰依する、身も心もささげるという意味です。
妙法とは、妙なる教え仏法を意味します。
蓮華とは、泥沼に咲く美しい花という意味でしょうか。
経とは教えです。
南無妙法蓮華経とは、あの泥沼に咲く美しい花のような尊い教え(仏法)に身も心もささげます、という意味になるかと思います。
意味を考えれば正しいことでしょう。
正しい仏法に帰依するということは、魂の進化という観点からしても正しい行為です。
しかし、正しい法に帰依するという意味である南無妙法蓮華経を、何回も唱えれば救われるというのであれば、意味が違ってきます。
仏法は広大無辺でありますから、最初の段階で三宝(仏・法・僧)に帰依する、仏を信じる信仰心は大切です。
しかし、それは唱えれば救われるというのであれば、間違っています。
なぜなら、仏法とは心の教え、心のあり方を仏に近づけるための修行であるはずですから、南無妙法蓮華経を唱えた数だけ救われるというのであれば、それは仏教ではないからです。
仏教が目指すべき方向性とは違うと思います。
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