表面意識と潜在意識について、あらためて考えてみます。
表面意識が対象を理解するには、感覚器官を通して対象が与えられ、自分の内にある概念から特定の概念を選択し、対象と結びつけて事物の認識に至ると思います。
ですから、感覚器官の性質・機能に依存した世界観を構築していくことになります。
表面意識で構築された思考内容、あるいは、感性的印象や他の人達の暗示など、潜在意識の方に流れていきます。
潜在意識は時空を超えて存在していますから、時間的・空間的制約はありません。
潜在意識には、自分の魂の兄弟といわれる方たちが存在して、心が正しい方向に向いているときに限り、逆に表面意識の方に情報を流す(インスピレーション)こともあります。
思いが一定方向に持続されてきますと、潜在意識はその方向に向かって思いを形あらしめようとする働きが生じてきます。
表面意識と潜在意識の関係が信仰心とどのように関連しているのでしょうか。
内村鑑三氏の一日一生という書物で、「信仰告白はもちろん、言葉をもってするのみが唯一の告白ではない。行為をもってする告白は言葉以上である。」
と述べています。
主に対する信仰心が潜在意識の深いところまで落ちたならば、それは行動として現れるということだと思います。
また、先の内村鑑三氏の言葉を借りれば、「感覚にのみよる宗教は迷信に走りやすい〜霊を解放せらし者は、また知能をも開発せらし者なり」と述べています。
霊的現象が身に及んだ時、自分自身の悟性と照らして、その現象に対する価値判断が出来なければ、真実の霊能者とはいえません。
過去の偉人たちは、高度な霊能力を有しておりながら、知性的であり合理的でもありました。
そして、一番大切なものはやはり「愛」であると思います。
「愛も信仰も同じように、日々ささやかな勤行によって維持される。」
といわれた人もいますが、愛も信仰心も日々のささやかな勤行によって、潜在意識まで浸透し自分のものとすることができるのではないでしょうか。
愛の反対は嫉妬であるとも言われています。
シェークスピアは、「嫉妬には気をつけなさい。それは自分の身を食う緑眼の怪物である」
と書いています。
シェークスピアは、霊的能力を持っていたのではないかと思います。
読んでいると、霊的世界における波長同通の法則を理解していたのではないかと思われる箇所を読んだ記憶があります。
嫉妬する相手は、自分の理想像であるはずです。と主は言われていました。
嫉妬が潜在意識に対して働く作用は、自分の理想像から遠ざかる働きです。
毎日の中で、愛をとるか嫉妬をとるか日々の選択ですが、嫉妬は精神エネルギーを消費し緑目の怪物に
魂を食われてしまうことですから、肝に銘じたいところです。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学