ニーチェは「神は死んだ」という言葉を残して発狂しました。
この言葉だけが独り歩きをし、唯物論に拍車をかけています。
私の見解として、ニーチェは哲学者としてあり得ない存在であると思っています。
私達が信仰を通して神仏やサンガーとつながっている限り、悪魔に付け入る隙はありません
トルストイは、信仰について以下のように述べています。
「信仰のない人間の生活は動物の生活である」。
繁栄の法には、「目に見えない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動することができる」ということは、人間として尊いことであるという内容が書かれていたと思います。
悪魔には、積極的に未来を創造する力はありません。
地上の混乱に乗じて、指導的立場にある人、権力を握っている人に取り憑き支配しようとします
ですから計画的に人に憑依をするというよりは、その都度、隙ある人間を訪ねに行くという形式です。
地上が混乱する理由は、魂が肉体に宿ることで感覚器官の制約を受けてしまうからだと思います。
本来の魂はある程度の自由を確保しています。
霊の状態で存在しているときは、個人差があるとは思いますが神仏を実感としてつかんでいるのではないかと考えます。
トルストイはさらに、「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」と述べています。
正心法語にも
「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」
と書かれていますが、意味は同じでしょう。
霊主肉従という言葉がありますが、霊が主で肉体が従という意味です。
しかし、人間の本質が霊存在であるといっても肉体に宿って地上で生活をしている以上、肉体管理をおろそかにすると、これがまた弱点となり悪魔に狙われるターゲットになります。
ですから、色心不二という考え方が大切であると思います。
色とは、肉体あるいは物質的なものです。
心とは、霊的な存在について述べています。
肉体と霊存在の関係は、霊主肉従の関係ですけども、色心不二でもあります。
また、観念論のヘーゲル、ギリシャ哲学のヘラクレイトス、トルストイも同じような見解を以下のように述べています。
人間を河に例えながら、「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」と言われています。
また、仏教的視点からは、縁起の理法が説かれています。
仏教の世界観も固定的な立場ではなく『変化』していくことこそが真理という立場ですので、自助努力によって、自分を変えていくことが可能であるという教えとも、共通していると思えます。
イエス様も、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」と言われました。
人を憎まず、真理からみてまちがった行為にたいして指摘することが大切であると思います。
悪魔ルシ○○の苦手なタイプが、「お人よし」「自己犠牲的」な人と言われていましたから、キリスト教の教え、仏教の教えは修行論であると同時に悪魔から身を守るための手段でもあったわけです。
結論は、三宝帰依が大切です。
信仰心がある限り主とつながっているのであり、悪魔も簡単に攻撃することはできないでしょう。
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