2017年07月24日

『悪魔からの防衛術』とエクソシスト入門を読み比べてみて

『悪魔からの防衛術』とエクソシスト入門を読み比べてみて

ニーチェは「神は死んだ」という言葉を残して発狂しました。
この言葉だけが独り歩きをし、唯物論に拍車をかけています。
私の見解として、ニーチェは哲学者としてあり得ない存在であると思っています。

私達が信仰を通して神仏やサンガーとつながっている限り、悪魔に付け入る隙はありません

トルストイは、信仰について以下のように述べています。
「信仰のない人間の生活は動物の生活である」。

繁栄の法には、「目に見えない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動することができる」ということは、人間として尊いことであるという内容が書かれていたと思います。

悪魔には、積極的に未来を創造する力はありません。
地上の混乱に乗じて、指導的立場にある人、権力を握っている人に取り憑き支配しようとします
ですから計画的に人に憑依をするというよりは、その都度、隙ある人間を訪ねに行くという形式です。

地上が混乱する理由は、魂が肉体に宿ることで感覚器官の制約を受けてしまうからだと思います。
本来の魂はある程度の自由を確保しています。
霊の状態で存在しているときは、個人差があるとは思いますが神仏を実感としてつかんでいるのではないかと考えます。

トルストイはさらに、「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」と述べています。
正心法語にも
「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」
と書かれていますが、意味は同じでしょう。

霊主肉従という言葉がありますが、霊が主で肉体が従という意味です。
しかし、人間の本質が霊存在であるといっても肉体に宿って地上で生活をしている以上、肉体管理をおろそかにすると、これがまた弱点となり悪魔に狙われるターゲットになります。

ですから、色心不二という考え方が大切であると思います。
色とは、肉体あるいは物質的なものです。
心とは、霊的な存在について述べています。
肉体と霊存在の関係は、霊主肉従の関係ですけども、色心不二でもあります。

また、観念論のヘーゲル、ギリシャ哲学のヘラクレイトス、トルストイも同じような見解を以下のように述べています。

人間を河に例えながら、「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」と言われています。

また、仏教的視点からは、縁起の理法が説かれています。
仏教の世界観も固定的な立場ではなく『変化』していくことこそが真理という立場ですので、自助努力によって、自分を変えていくことが可能であるという教えとも、共通していると思えます。


イエス様も、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」と言われました。
人を憎まず、真理からみてまちがった行為にたいして指摘することが大切であると思います。

悪魔ルシ○○の苦手なタイプが、「お人よし」「自己犠牲的」な人と言われていましたから、キリスト教の教え、仏教の教えは修行論であると同時に悪魔から身を守るための手段でもあったわけです。


結論は、三宝帰依が大切です。
信仰心がある限り主とつながっているのであり、悪魔も簡単に攻撃することはできないでしょう。





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posted by ガンちゃん at 00:51 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月23日

LEO幸福人生のすすめ より掲載 文章を書くことの意味〜清水幾太郎「論文の書き方」を再読しながら

文章を書くことの意味〜清水幾太郎「論文の書き方」を再読しながら〜1
2016-05-08の記事
http://ameblo.jp/space-people/entry-12158184257.html

論文の書き方 (岩波新書)/岩波書店

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清水幾太郎さんの「論文の書き方」を再読中。
以前は紙の本で読んだのだけれど、今回は、電子書籍で買い換えての再読です。なので、まっさらな文章を読みながら、今回は電子上でラインを引き引き読んでいます。

清水さんの思想や考え方は、渡部昇一さんに受け継がれ、それが大川隆法総裁先生へとも伝えられていっていると、清水幾太郎さんは霊言でみずから述べていました。

核か、反核か―社会学者・清水幾太郎の霊言 (OR books) -
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清水幾太郎さんも文章が上手いです。読みやすく、わかりやすい。
渡部昇一さんも上手いです。語るように書いているのだ、と渡部さんは述べていますね。
そして、大川先生の文章は最高です(笑)。


そんなこんなで、文章を書くということの意味。
名文家の人たちは、どういった点に注意して文章をつづっているのか。そうした点がとても気になります。

プロだけが書けばいいのであって、素人は文章を書く機会もないし、別に書かなくたっていいんじゃない?

などと言うことなかれ。
書いてみなければわからないことがある、というか、書くことによって理解は初めて完結するのだ、と清水さんは述べているんですよね。

清水さんは大学の授業で、学生たちに対して、課題図書を自ら選んで、それを読んだ上での感想を原稿用紙10枚で書いて提出しなさい。
という課題を、毎年、受け持った学生たちに与えていたそうです。


書物の紹介及び批評を内容とする短文を学生に課して来ている。取り上げる書物は、数種類のうちから学生自身が選ぶようにし、枚数は書物一冊につき十枚と定めている。





こうして課題を出すと、学生たちはたいてい、読んだあとで先生に、難しすぎて書けません、と言ってくるそうです。
その本よりも、もっと難しい本を読んでいる学生たちが、その本に限って、難しくて書けない、という。
それは本自体が難しいのではなく、読んだ後で書かなくてはいけないから、真剣に読まざるを得ず、しかもそれを後でどう感想にするかで悩むから、苦しく、難しく感じるのであろう。

そう、清水幾太郎さんは解説しています。


以前に読んだ時は、単純に読むだけであって、自分を通して表現するという活動を伴わなかった。精神が受身の姿勢でいることが出来た。
ところが、私の与えた課題では、書くことを前提して読むのである。自分で表現し得るように理解しなければならない。
多量の精神的エネルギーを放出せねばならず、精神は能動的な姿勢を保たねばならない。
こうなれば、童話のように易しい本でも、ひどく難かしく感じるであろう。読者が著者に近づくのである。





とあります。

単に受け身で、好きなように、気ままに読むだけだったら、楽ちんだし、
中身を理解できなかろうが、流し読みしようが、読んだふりをしようが(笑)、誰にも注意を受けないし気楽も気楽。
内容をまったくトンチンカンに履き違えて読み間違えていたり、表面的にしか読んでいなかったとしても、誰からも突っ込まれないし、批判もされません。楽です


でも、そうした楽な気分の読書、受け身の読書というのでは、精神の緊張が足りていない、とも言えるわけです。
だから、読んでる最中の真剣度が違う、というか、後で書くことを想定している人の読み方に較べたら、甘いわけです。それが結果として、読んだ後でもすぐ忘れてしまう、とか、おおざっぱな印象しか残っていない、とか。
分かった気になってるけど、いざ話させてみると、ろくすっぽ理解できていない。そういった結果になってしまっているわけですね。
まぁプロの書き手じゃないから、それでええやんか、といえなくもないけれども、せっかく読んだのに大して覚えてない、理解も浅い、というのでは、読み方自体が中途半端でもったいないですね。

清水さんは、読むだけの読書を、つぎのように解説しています。


読んでいる間は、「なるほど」とか、「そうだ」とか、心の中で相槌を打ちながら、一々判って行くけれども、また、読み終った瞬間、一種の空気が心の中に残りはするけれども、肝腎の書物の内容は、輪郭の曖昧なもの、捕えどころのないものになってしまう。日が経つにつれて、それさえ何処かへ蒸発してしまう。糸が切れた風船のように、空へ消えてしまう。





これは、自分で読んでも、本当に納得、ひじょーによくわかります。

学生時代に読んだ小説だとか、エッセイ本など、読んだ本のタイトルや作者名くらいは覚えているし、あ、この小説、面白かったよなー確か。
とまでは言えても、細かなストーリー展開は忘れてしまっていて、ひじょうにおおざっぱなイメージしか残っていないのが普通かな。
ひどい場合には、まったく中身を覚えておらず、再読すると、初めて読んだ小説のように、新鮮に読めて楽しめてしまうというね(笑)。

これをもし、当時、読んだあとに感想文を書いたりだとか、何かしらのアウトプットを目的とするような読み方をしていたら、もっと真剣に読まざるを得ずに、それゆえ記憶にももっと強く深く、刻み込まれていたのだろうな。そんな気がしますね。

いまは、どんな読書をしていても、わたしはブログで何かのテーマで書こうかな、と思いながら読んでしまうので、書くことを想定しながら読んでいます。
なので、読みながら、記事のネタを拾いながら、かつ自分なりの論点を模索しつつ読むのが日常となっています。


精神の高度の緊張の中でなければ、文章というものは書けない。それだから、私は十枚の枠を固執するのである。





学生への課題と同じで、書くことを想定させて読まざるを得ないとなると、清水さんが指摘しているように、精神は緊張状態に置かれる。その緊張状態とは、集中力でもあり、書かれた内容に対する真剣さの違い、ということでもあるかと思います。
この緊張が、単なる受け身の読書よりもいっそう深く、読み手の心に、読んだことの深い意味を読み取らせてくれることにつながる。

書くことによってこそ、読書ははじめて完成する。

清水幾太郎さんは、そう述べています。範としたい読書論であり、文章論かと思います。




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posted by ガンちゃん at 18:41 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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