地上的に頭が良いといわれる人であっても、目に見えない尊い存在や霊的世界に関して信じることが出来ないというのであれば、その知は本物とは言えないでしょう。
日本の学問的価値において優れていたとしても、宇宙的学問からみたらまったくの底辺である可能性もあります。
科学万能主義が行き過ぎた結果、実験的あるいは経験的に確認できる範囲内に学問の対象を限定し、それ以外、例えば、魂や霊的世界に関しては、充分に探究し研究しているとは言い難い状況になっています。
観念論哲学のカントは、確かに学問の対象を経験の範囲内に限定をかけて哲学を構築していますが、カント自身は論理的に証明できないからと言って神の存在を否定していません。
むしろ、悪人が栄え、善人が苦しんでいる姿を見ると、死後においてそれを精算して下さる存在がいなければ、正義が考えにくくなるという趣旨のことも述べています。
そもそも、霊的世界といわれる高次元世界を三次元的材料で証明しようとする考え自体が間違っていると言えます。
もし、三次元的な測定器を使用して、完全に証明できるのであれば、それは物質であって霊ではないということになります。
私も化学や物理は好きですから、否定するより積極的に肯定して自分自身の哲学の下支えにしているぐらいです。
しかし、私は証明できなくとも霊的世界は必ずあると信じる派ですから、物理の法則を霊的世界の証明に結びつけて考えることができないか、そちらの方に思考が働きます。
渡部昇一氏も「人は老いて死に、肉体は亡びても、魂は存在するか?」という著書に、パンセの考えを引用して、最後は魂の存在、霊的世界の存在を信じるか、信じないかのどちらかであると述べています。
そして、どちらが得かと言えば信じる方にかけた方が良いと述べています。
理由は、人間は死んだらすべてが無に帰すると考えるならば、生きている間に魂の存在を信じたとしても死んですべてがなくなるのだから、どうということはない。
しかし、もし霊的世界や魂が死後の世界において存在するのであれば、信じることを否定した御自身は大変なことになりますよと述べていたと思います。
死んですべてがなくなると思うから、生きている間に好き勝手なことができるのであって、霊存在が自分の在り方を見ていたとしたら、とても恥ずかしくてできないことでもできてしまう。
人間の幸福を考えたときに、自然科学だけでは絶対に精神を満たす幸せを最終的に手に入れることはできないでしょう。
科学は、未知なるものに対しての解明と、人間を幸福にするための手段であって幸福そのものではないと言えるのではないでしょうか。
例えば、読書をすることで脳科学的には、血液が脳のこの部分に集中してくると実験的に証明できたとします。
しかし、どのような本を読んでいるかまではわからないでしょう。
哲学書か宗教書かマンガか、はたまたエ○本か、読んでいる本の内容までは解らないはずです。
読んでいる本の内容によって精神に与える影響力も化学的には解らないでしょう。
また、自然科学的に美しいとか醜いとか判断できるでしょうか。
できないでしょう。
芸術や音楽を聴いて美しいと感じたり感動したりすることができるのは、すべて魂の属性であって自然科学的に美しいと感じたりはできないのです。
ですから、自然科学は人間が幸福になるための手助けはしてくれますが、幸福そのものを得ることまではできないと思います。
そして、強制されることなく神仏をごく自然に信じることができる人は、すでに幸せを手にしていると思います。
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学