王陽明と朱子の思想と対立関係にある唯物論
王陽明の思想は唯心論に近い思想であると思います。
唯心論とは、世界の本質と根源を精神的なものに求める思想で、物質的なものをその現象あるいは、仮象とみなす学説です。
精神的なものとは、精神、霊魂、意志などをあらわしていると思います。
一者から万物の流出を説くプロティノスや、理念の支配を説くヘーゲル、あるいは仏教、朱子学や陽明学などがあります。観念論哲学に通じるものがあると考えます。
すべては心の中にあり、心の表れである。そこに事物が存在するわけではなく、心で思うことが実在であり、実体であるという考えであると思いますが、人間原理宇宙論に通じるものがあると思います。
人間原理宇宙論とは、人間の意識と宇宙とはお互いに依存関係にあるという考え方です。
人間が観測したとき、はじめて宇宙は実在する?といった量子力学の哲学的な側面、純粋思索から生まれた考え方です。
王陽明は「すべては心の中にあり、心の表れなのだ。
だから、谷間に咲くユリの花であっても、そのユリの花が存在するわけではなく、心の状態である「寂」の表れたものが、その谷間のユリなのだ」王陽明 自己改革の道・参照
霊的世界における法則を、地上的に置き換えて表現しています。
そして、王陽明は実践の大切さにかなりの比重をおいています。
「知行合一」という言葉は有名ですが、知っているということと、行動は同じであるという意味です。
本当に知っているのであれば、具体的な行動に転化するはずだということでしょう。
朱子は、「まず‘理’というものがあります。
理とは、理念であり、プラトン的な表現をすれば、イデアということになるでしょう。
事物の本質的な真理のことを言いあわわしていると思えます。
その理念を、現実世界・物質世界に具体化するためには‘気’が必要なのである。
高次元にある理念が、気というものを通して地上世界に具現化する」
という思想であると思います。
つまり朱子は二元的に、形而上(霊的、精神的な意味)と形而下(物質的、肉体的)に分けたのです。
朱子は、この地上に現れているものの中に、理念、真実が含まれていると考えました。
これを「理一分殊」といいます。
これは、現実の中に理念をみるというヘーゲル哲学に似ている感じを受けます。
黄金の法には、月の例えが記述されています。
川や水たまり、湖や海にうつる月は不完全ではありますが、いくつも存在するように見えます。
しかし、月(本質あるいは理念)は一つであるという意味です。
プラトンのイデア説に類似しています。
映し出される存在は、不完全でいびつな形をしています。
しかし、本体(本質)は完全な美しい状態であるとういうことだと理解します。
王陽明も朱子も、根底に観念論哲学的、仏教的、ギリシャ哲学的な思想が含まれていると自分は考えています。
観念論と唯物論の関係を考察します。
古い哲学的命題にこういう話があります。
「森の中で木が倒れましたが、あたりにはそれを聞く人が誰もいませんでした。はたして、木は倒れる音を発するでしょうか?」
この問いに対する科学的な回答は常にこのようなものでした。
「森で木が倒れたならば、必ず音を発し、大気中に音波が伝わると・・・」
しかし、量子力学では、観測されないかぎり何事も客観的には実在しないとして、この仮定に疑問を投じてくるのです。
例えは、1個の電子が粒子として、あるいは波としても観測されるということ、その違いは何かといいますと、観測目的をあらかじめどちらに設定するかによって決まることを知っています。
しかし、私たちは1個の電子が同時に波であり、粒子ではありえないことも知っています。
波は粒子ではなく、粒子は波ではないからです。
意識ある存在(人間)がどちらかの実験方法を選択することで、実在が、意識ある存在の思った通りに観測されるということです。
観測という行為が可能なのは唯一「意識ある存在のみです」
つまり、宇宙は観測されなければ存在しない。そしてそれを観測できるのは、意識ある生物だけであります。
つまりそこに生物が存在するから宇宙があるといった考え方です。
唯物論とは、精神的なものに対して、物質の根源性を主張する立場であり、観念論と対立する思想であると思います。
物質とは無縁な霊魂や精神性を一切認めず、実証科学に基づいて思考を高度に組織された物質(脳髄)の所産とするといった考え方であると定義できると思います。
プラトンの洞窟の譬えは有名ですが、ルドルフ・シュタイナーも唯物論に対して比喩を用いて説明しています。
唯物論とは、地面についた足跡を研究していて、実際の足や人間についての研究がなされていない状態であるといった説明をしていたと記憶しています。
地面についた足跡をいくら研究し、調べてみたところで真実がわかるわけもありません。
経験を通して追体験できない、客観的に証明しようがないという理由で学問として成立しない、学問的に認められないということは、各個人がそれを認めるか、認めないかの違いだけである。
という理由で否定してくる場合が多いのではないかと思います。
しかし、物がすべてという唯物論的な考え方は、人間の品性を落とし、刹那的な人間を作り出してしまうのではないでしょうか。
霊的な存在を信じるわけでもなく、神や仏の存在を信じるわけではなく、人が見ていなければ何をしてもかまわないといった人が増え続けることで、動物的な社会が構築されてしまう危険性を感じます。
真実の意味における人権問題とは、人間の尊さとは肉体のほうにあるのではなく、肉体に宿りたる魂のほうにあり、魂の核の部分には神仏と同じ光りを有しているからこそ人間は尊い存在であり、そこにこそ人権を守ろうとする正当性が生じてくると自分は思います。
歴史上、霊的世界の証明をしようとした偉人は数多くいます。反対に古代のギリシャから物がすべてとする唯物論的な哲学?もありました。
しかし、真実は一つです。
唯物論も正しいが霊的世界も正しいということはありません。
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