2017年01月08日

イエス様の復活の意味

イエス様の復活の意味

群衆が「その男を殺せ、十字架につけよ」と騒ぎ出します。

ピラト総督は自己保身かもしれませんが、聖書を読む限り、イエス様を処刑することをためらっていることがうかがえます。
ピラト自身は、イエス様が死罪にあたるような罪を犯したとは思えない、と考えていたと思われます。

イエス様は、いろんな尋問に対して終始無言です。
弁明しない被告を処刑することは、ローマ人の習慣にはありません。ローマ帝国とキリスト教参照

そこで・・・・

「過越の祭にはひとりの囚人を赦すことにした。今年は、バラバかイエスか、どちらかを赦そう。
どちらかお前たちで選べ。バラバか、それともイエスか」
ピラトのこの選択形式の質問に私は、ピラトが多少なりともイエス様を救う気持ちがあると善意に解釈します。
バラバは最近捕まった反抗運動の首領で、暴動と殺人のかどで、死罪を免れない男です。
ピラトは、「イエスのほうを赦せ」という言葉を期待していたと解釈します。

しかし・・・

イエス様はゴルゴタ(されこうべの場)に連れていかれます。

周囲には、イエスの母マリアとマグダラのマリア、数人の人が見守っていました。
イエス様は天の父(主・エルカンターレ)に祈ります。
「父よ、彼らを赦してください。彼らはなにをしているのか、わからずにいるのです」

そして、昼の12時頃から地上の全面が暗くなって3時に及びます。
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と言われたと書かれています。
「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と聖書に書かれていますが、その続きをよく読みますと、次のように書かれています。

そこに立っていたある人々が、これを聞いて言った。
「あれはエリアを呼んでいるのだ」
真実は、エリア、エリア、ラファエロ、向かいに来なさいという意味でした。
ある人々と記述されていますから複数人いたと考えられます。

そして、イエス様は三日後に復活されます。

復活に関してはパウロが書いた手紙の中に最古の形で保存されています。
「聖書に書かれてあるように、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたことである。そののち五百人以上の兄弟たちに、同時に現れた。その中にはすでに眠った者たちもいるが、大多数はいまなお生存している。
そののち、ヤコブに現れ、次にすべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば、月足らずに生まれたようなわたしにも、現れたのである。」

弟子を含めて、五百人が目撃しており、更に生き証人がいるということですので、復活は事実であると認識していいと思います。

復活に関してはエジプトでも、ミイラというかたちかもしれませんが、復活信仰がありました。
王様を包帯でくるみ保存しておくことで、やがて魂が戻ってきて再生するという復活信仰でしょうか。
エジプトには、アトランティスから引き継がれた、「何か」があるような気がしますので、おそらく、その「その何か」の名残かもしれません。

更に、ラザロの復活です。
イエス様はなかに向かって叫びます。
「ラザロよ、でてきなさい」
大勢の人々の前に、手足を布でまかれ、顔も顔おおいで包まれたまま、ラザロが起きてきたので、みんなビックリします。
この事件は、大勢の目撃者によって拡がっていきます。
多くの人は自分の目で真偽を確かめるために、ベタニア村に生き返ったラザロを見物に集まってきます。

この記述からして、ラザロの復活も真実であると思って間違いありません。

更にプラトンの「国家」にはエルの物語が書かれています。
エルは戦争で最期をとげます。十日の後、数々の死体が埋葬のため収容されたとき、他の屍体はすでに腐敗していましたが、エルの屍体だけが腐らずにありました。
死んでから十二日目、まさに火葬される寸前に、エルは生き返ります。

更に生き返っただけではなく、死後、「お前は死後のことは人間たちに伝えなければならない」という使命を霊人に告げられます。

この時代すでに、死んでから十二日後にエルは復活しています。

ですから、イエス様がたったの三日後に復活したことは、歴史の事実として認識してよいと思います。

復活を事実として受け止めるとして、復活の意味を考えてみます。

聖書には、転生輪廻の記述が意図的に削除されたといわれています。
時の権力者が、自分の立場を堅持するために、転生輪廻の思想が邪魔であったと言われています。

ですから、復活は霊的意味として考えた場合、人間の魂の不死性、永続性を意味していると思えます。

しかし、目撃証言から、イエス様の復活はある程度の肉体的復活であったかもしれません。
奇跡は信じる力に比例して起きる現象と定義しますと、復活現象はイエス様を信じる人々の力が、一部働いていたのかもしれません。

あるいは、イエス様の復活は、愛というものは死滅することはなく、宇宙の普遍法則であるという霊的意味があるのかもしれません。

愛の普遍法則が「復活」として具現化したのかもしれません。

ある歴史家は、もし、イエスキリストの遺体が発見されたら、キリスト教は根底から崩れると述べています。
しかし、それは唯物論を根底にした間違った考えであると言えます。

復活は、肉体が永遠に継続するという意味に解してはいけないと考えています。
このような人は、人間の死という意味を理解していないと私は判断します。

現代でも臨死体験が報告されていますので、復活はあり得る現象です。

それは、肉体が永遠不滅であるという意味ではなく、その肉体に宿る魂が永遠不滅なのであるという意味です。


ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:55 | Comment(4) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年01月03日

霊的体験を普遍性にまで高める・真理をどの感覚器官で認識するか

霊的体験を普遍性にまで高める・真理をどの感覚器官で認識するか

プラトンやソクラテス、シュタイナー、スウェーデンボルグといった光の天使たちは、自分の体験、経験した霊的現象を、知性や理性で整理し、書物として世に問うています。

そこには単に自分の霊的経験という枠をこえて、普遍性にまで高められ、人類の叡智として人々に教えとして学べる形で現代まで伝えられています。

自分の霊的経験を踏まえて、人類にとって共通する普遍的な部分を、文書として理論的にまとめあげているということです。
霊界の普遍性、理念・抽象的概念を自分の認識内容として受け取り、個性を通して表現していると言えます。

観念論哲学のヘーゲルはプラトンの転生した姿であるといわれていますが、プラトンとは違った真理の表現形式をしています。
ヘーゲルは抽象的概念、抽象的理念を整理し、体系的にまとめています。
一般的には、真理の内容が深ければ深いほど、内容自体が抽象性を帯びているため、高度な認識力を必要とします。

ですから必然的に、霊的世界、理念や抽象的概念を人に説明するのは難しい説明になってしまうのでしょう。
あるいは、日常使用する言葉の中に、霊的世界の現象を表す表現方法がない場合もあるでしょう。
「一即多・多即一」、「絶対矛盾的自己同一」と言われましても、通常は意味が理解できません。

哲学者は抽象的理念をこそ大事だと考えて、より厳密に体系的にまとめ、表現しようとします。



霊的直観に伴う芸術的表現形態は、感性に訴えるもので、どちらかと言うと抽象的な概念や理念を語るのでなく、より感覚的に経験に即したイメージとして表現しているといえます。
ゲーテや音楽家、絵画やクラシックバレエなど、天上界にある霊的な光を、「美」という形で表現し、感性的に訴えかけてきます。

哲学的認識はどちらかと言うと、頭の中で思考力がフル回転していますので、感動して心の奥底にまで響いてくるということはあまりないと思います。

しかし霊的真理は、芸術を通して感性的に表現されますと、心に感動を覚え、乱れた心の波長が天上界の波長と同調し、心が整えられていく感じを受けます。

音楽では、ショパンのピアノ音楽や、バッハのパイプオルガンでトッカンターとフーガなど聞いていると、心が安らぐ感覚を覚えるし、神の世界を感じるような気がします。(個人的感想)

霊的世界の真実を、哲学的に表現するのか、芸術的に表現するかは、霊的インスピレーションを受け取った本人の個性に基づいて違ってくると思いますが、自分自身の努力によって、どれだけ器を広げることができるのか、それによって天上界から降ろされるインスピレーションの質と量が違ってくるのかもしれません。






ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 02:43 | Comment(2) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。