2016年12月19日

神に向かう心理

神に向かう心理

フランシス・ベーコンは「少しばかりの哲学は人間の心を無神論に傾かせる。だが、哲学に深く入れば、人々の心は宗教の方にまた向かうことになる」と随筆集で述べています。

これは哲学に限らず、あらゆる分野において言えることであると思います。
数学の岡清氏の著書を読みますと、生半可な仏教学者よりも、よほど仏教に精通していると思います。
ニュートンの謙虚さは、神の偉大さを認識していたのでしょう。
「目の前には、いまだ手のつけられていない
真理の大海が横たわっていた。
私は、その浜辺で
滑らかな小石やきれいな貝殻を、拾い集めていたにすぎない」
ニュートンにしてこの謙虚さです。

アインシュタインは、「科学によるすべての業績よりも、ブッダやイエス、モーゼのような人たちの功績のほうが、ずっと意味があります。
人類が人間としての尊厳を守り、生存を確保し、生きることの喜びを維持し続けたいのなら、これらの偉人たちが私たちに与えてくれたものを、全力で守り続けなければなりません。」
と述べています。

表面的な知識でなく、自分自身が納得するまで知識を詰めた人、考え続けた人というのは、基本的に謙虚です。生半可な知識や間違った理解をしている者たちは、自我が強く自分は偉いと考え違いをします。

ベーコンが述べているように、少しばかりの哲学(哲学以外に関しても)は、人間を無神論にします。表面的知識で満足している人たちは、単に、人から教わった内容を何の疑問も感じることなく受け売りしているように感じます。

神を信じない人達は、自分の目に見えて観察できないものや経験を通して体験できないもの、自分の認識の枠組みを超えたものに関しては、知識が表面的な理解で止まっていて、踏み込んで考えようとしません。

そのような人たちの考え方の特徴として、宇宙や生命の根源的な問題に関してはすべて『偶然』という考え方に持っていこうとします。
神が存在し、宇宙や人間を創造したという考え方を極端に嫌い、根源的な問題をすべて偶然に帰します。
永い年月があればアメーバーや動物が、環境やその他の条件によって人間に進化するであろうと、確たる根拠もなく信じています。

必然的に、唯物論からは人間の尊厳など理解できるはずもなく、死ねばいろんなことに思い悩んでいる自分自身もなくなるので、苦しみから解放されると考える人も出てくるのでしょう。

ヘラクレイトスは「人は自分自身の小さな世界の中で真理を求め、大きな一般的な世界の中で求めなかった」と言われています。

自分の小さな考えの中でわかったような気になっているだけで、霊的存在であるところの人間の本質や霊的世界観にまでは、踏み込んで真理を探究することはなかったという意味に解釈することもできると思います。

知識に対して自分自身が嘘をつかない姿勢、本当に納得いくまで真実を探求した人は、すべて、神や仏の存在を信じていると言えます。

それは、宗教にとって大切な信仰心につながる道でもあると思います。




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posted by ガンちゃん at 02:19 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月18日

カトリック教会の道徳とキリスト教の精神

カトリック教会の道徳とキリスト教の精神

道徳とは何かを定義するならば、社会で一般的に承認されている規範の総体、その基準に従って、その行為の善と悪、正義と不正を評価することであるといえます。

モーゼの十戒には、「人を殺すなかれ」とあります。仏教でも不殺生、殺生戒、人を殺してはいけないと教えています。
例えば、「人を殺してはいけない」という立法の命令は、カント的には、『普遍的立法の原理として妥当しうる原則』『いかなる理性的存在者の意思にも妥当するものと認められる原則』とされると思いますが、
イエス様は、このような命令に対して和解(愛の一様態)という一層高次の精神を対置させています。

更に道徳を簡潔に述べるとするならば、よく生きることであると言えます。
良く生きるとは、正しい意味において幸福に生きるということであると思います。

すべての人は幸福になることを望んでいます。そもそも幸福な人とはどのような人なのでしょうか。
カトリック教会のいう幸福、アウグスティヌスの考えでは、このように述べています。
「なんであれ自分の望んでいるものを持たない人、あるいは、望んでいるものを持っていてもそれが有害である場合、または、せっかくもっとも良いものをもっていてもそれを持ちたいと望んでいない人、これらの人はみな幸福とはいえません。
なぜなら、持つことのできないものを求める人は苦悶し、求めるべきでないものを持っている人は、誤っており、持っていてしかるべきものを求めない人は健全でないからです。」
この三者の中には幸福はありません。

アウグスティヌスによる幸福の定義とは、「人が自分の最高善を、望むとともに獲得している場合である」と述べています。
最高善とはもちろん、自分より劣っているものではありません。自分より劣っているものを追求する人は、自分自身も劣ったものになるからです。
人が幸福になるためには、卓越しているものを追求するべきだ、ということです。
そうしますと、人間より卓越した存在とは何でしょうか。
それが神の存在ということであると考えます。
神は我々にとって最高善である存在だからです。
アウグスティヌスは、「神を愛する人にとっては、万事が益となることをわれわれは知っている。
われわれはあらゆる努力をそこに集中しなければなりません。」ということを述べています。
神はわれわれにとってあらゆる善を包括する存在であるので、あらゆる配慮をそこに集中するべきです。

道徳とは、人間社会が健全に成り立っていくためには必要であるとは思います。
すべての人が、他の人を害することなく生きていくうえで必要なものです。

しかし、真実のキリスト教的な精神は道徳を超えていると言えます。

道徳には、悪い行為は規制するという働きがありますが、各人の心の中までは規制することができません。
つまり、悪い考えや思いを持った人間であっても、行為自体が律法に引っかからなければ、許されてしまうということです。

ヘーゲルはキリスト教精神について以下のように述べています。
「それは、律法で戒めている行為をしないというだけでなく、むしろ、かの律法を不要と化すものであり、それによって律法のような貧しいものはもはや存在しなくなるほどに、はるかに豊かな生き生きとした充実をそのうちに宿すものなのです。」

これは、法律によって人々を規制しなくても、自分自身の思いと行動を自分自身で統御できる、あるいは、普通の生活をするなかで、法律がなくても法律を破るような生き方をしない、そのような生き方が、イエス様がいわれる愛の中に含まれる意味の一つであるといえます。

「愛にあって義務観念はすべて消えうせる」という言葉もあります。

マタイ福音書のなかでイエス様は「あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と言われています。
イエス様は、祈りや断食にあたっては人前でそれを見せつけるような虚飾的な行為を批判しています。

これは本心と行動が一致しない偽善者に対しての忠告だと思いますが、人間の本質が心であることを考えると、見せかけの行動や、心がともなっていない言葉などはすべて、霊的価値基準からみてマイナスということになります。

イエス様も、「木がよければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。どうして良いことを語ることができようか。
おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」と言われています。

第一に正すべきは心の状態であると言えます。

また、ハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という律法があります。
つまり報復です。この報いの平等ということは、一切の正義の聖なる原理であり、すべての国憲の基づくべき権利です。
しかし、イエス様はこの一切の権利をすべて放棄することを要求し、このような正義、不正義の領域全体を愛によって乗り越えることを要求しています。
個人や国にしてもお互いに、自分自身を正義と考え、相手を悪という位置付けでとらえますが、イエス様は、正義・不正義という対立を愛によって乗り越えることを要求しているのかもしれません。
しかし、これは善悪の価値判断がつけられないということではありません。

善と悪があるのは知ってはいますが、それを愛によってのりこえろということです。


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posted by ガンちゃん at 03:06 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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