フランシス・ベーコンは「少しばかりの哲学は人間の心を無神論に傾かせる。だが、哲学に深く入れば、人々の心は宗教の方にまた向かうことになる」と随筆集で述べています。
これは哲学に限らず、あらゆる分野において言えることであると思います。
数学の岡清氏の著書を読みますと、生半可な仏教学者よりも、よほど仏教に精通していると思います。
ニュートンの謙虚さは、神の偉大さを認識していたのでしょう。
「目の前には、いまだ手のつけられていない
真理の大海が横たわっていた。
私は、その浜辺で
滑らかな小石やきれいな貝殻を、拾い集めていたにすぎない」
ニュートンにしてこの謙虚さです。
アインシュタインは、「科学によるすべての業績よりも、ブッダやイエス、モーゼのような人たちの功績のほうが、ずっと意味があります。
人類が人間としての尊厳を守り、生存を確保し、生きることの喜びを維持し続けたいのなら、これらの偉人たちが私たちに与えてくれたものを、全力で守り続けなければなりません。」
と述べています。
表面的な知識でなく、自分自身が納得するまで知識を詰めた人、考え続けた人というのは、基本的に謙虚です。生半可な知識や間違った理解をしている者たちは、自我が強く自分は偉いと考え違いをします。
ベーコンが述べているように、少しばかりの哲学(哲学以外に関しても)は、人間を無神論にします。表面的知識で満足している人たちは、単に、人から教わった内容を何の疑問も感じることなく受け売りしているように感じます。
神を信じない人達は、自分の目に見えて観察できないものや経験を通して体験できないもの、自分の認識の枠組みを超えたものに関しては、知識が表面的な理解で止まっていて、踏み込んで考えようとしません。
そのような人たちの考え方の特徴として、宇宙や生命の根源的な問題に関してはすべて『偶然』という考え方に持っていこうとします。
神が存在し、宇宙や人間を創造したという考え方を極端に嫌い、根源的な問題をすべて偶然に帰します。
永い年月があればアメーバーや動物が、環境やその他の条件によって人間に進化するであろうと、確たる根拠もなく信じています。
必然的に、唯物論からは人間の尊厳など理解できるはずもなく、死ねばいろんなことに思い悩んでいる自分自身もなくなるので、苦しみから解放されると考える人も出てくるのでしょう。
ヘラクレイトスは「人は自分自身の小さな世界の中で真理を求め、大きな一般的な世界の中で求めなかった」と言われています。
自分の小さな考えの中でわかったような気になっているだけで、霊的存在であるところの人間の本質や霊的世界観にまでは、踏み込んで真理を探究することはなかったという意味に解釈することもできると思います。
知識に対して自分自身が嘘をつかない姿勢、本当に納得いくまで真実を探求した人は、すべて、神や仏の存在を信じていると言えます。
それは、宗教にとって大切な信仰心につながる道でもあると思います。
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