救世主が降臨することによって、教祖崇拝になるので霊的進化が遅れるという考えは違うと考えます。
○○○さんは、下手に救世主を出すと、といいますが、救世主は何千年に1回しか御降臨されません。
モーゼは偶像崇拝を戒めました。
しかし、ご本尊でも偶像でも大切な考え方として、霊的にどこに通じているかということです。
教祖崇拝という言葉の響きはあまりよくない感じがします。
主に対しての信仰を持つのは同然です。
信仰があるのかないのかの違いが、霊的関係か地上的な関係かの違いになります。
お布施にしても、信仰心がなければ、ただの対価関係になるでしょう。
○○○さんが言う教祖崇拝、言い換えますと主に対しての信仰心が霊的進化を送られるというのは間違いです。
人間は、目に見えない五感では認識できない価値観を信じることができる、本当の意味において尊い霊的存在です。
霊的世界と言いましても、肉体感覚で確認することは通常できないでしょう。
神通力がある○○○さんなら実感としてつかむことも可能かもしれませんが、一般的には霊的世界を認識することはできません。
ですから信仰心を通して、主の法を信じることによって、確認することができない霊的世界、人間の本質、光の天使の存在を知ることできるのです。
余談ですが、本当に信仰心がありませんと、尊い法を聞いても、まったく違う理解をしてしまい逆に増上慢になります。
自分の考えに引き寄せて勝手な解釈をし、法を自己弁護に使ったりします。
実際ブログ村のKという人物は、法を学んでいながら、嘘、捏造、法の勝手な解釈、人を貶める行為など、何のためらいもなく実行しており、注意されると自分が無実の被害者であるかのような態度に出ます。
このような人間にならないためにも、信仰心は大切だということです。
信仰心を通して霊的には進化すると私は考えます。
救世主は、何千年に一度だけ地上に生誕されます。
その何千年の間、主が直接「法」を説くことがありません。
ですから、救世主が御降臨された同じ時代、同じ地域に生を受けるとういことは、霊的に成長するまたとないチャンスなのです。
そのチャンスをつかむことができるか、逆に、救世主と気づかず反対の立場に身を置くかは一つの賭けかもしれません。
次に宗教間の争いについてです。
天上界にもいろんな高級霊がいらっしゃいますので、天上界の視点から私の意見を述べることができません。
私の領分を超えているからです。
しかし、地上にある人間の視点で宗教間の争いの原因を考察するとするならば、はっきり言って人間側の認識力の限界が争いの火種であると考えます。
キリスト教、仏教、イスラム教、儒教(は宗教と違うかもしれませんが)に共通する普遍的な教えの部分をわかり合おうとせず、違う点のみをもって批判してきました。
それぞれの宗教の独自性を失うことなく、宗教を統合するには、現代に降臨された救世主以外にあり得ません。
霊性の時代を切り開くのは救世主と信仰心を通して主と一体である信者であるというのが私の結論です。
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