愛と正義のバランス 愛は永い時間を必要とし正義は即決断
トルストイは愛について以下のように述べています。
「人間は河のように流れ動くものです。人間は同じ人間であっても毎日、同じ人間とは限らず、ばかであった人が利口になったり、意地の悪かった人が、親切になったりする。そしてその逆も真である。人間を裁いてはならない。こちらがある判断をくだしたとき、相手はすでに別人になっているのである。」
人間の心の奥にある神性・仏性を肯定し、時間の流れで人間は変わっていく存在であるという考え方だと思います。
実際に、人間は努力次第で魂が向上し、光の天使や戦士、菩薩・如来になる可能性がありますから、根源の神は、永遠の時間を通じて人間の進歩を見守っていると考えていいと思います。
愛と信仰の関係を考えてみますと、そのような肉体に基づく感覚器官では到底認識することができない尊い存在を信じ、理解し、それに基づいて行動するということは人間の魂にとって大切なことであると思います。
「信仰のない人間の生活は―動物の生活である」という言葉もあります。
愛とは、永遠の時間の流れの中で、育まれるものであると思います。
そして宇宙には、バランスの法則、作用・反作用の法則が働いていますから、自分が蒔いた種は転生の過程の中で刈り取らなければなりません。
イエス様は、「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな、剣で滅びる」といわれています。
また、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう。許してあげなさい、そうすれば許されるであろう」といわています。
イエス様のお言葉も、作用・反作用の法則、蒔いた種は刈り取らねばならないという、宇宙の法則を言い表しています。
同時に、心の世界に働く法則はすべての人に対して平等であり、霊的には深いところですべての人がつながっているということです。
ですから、愛というものが宇宙で最大の力であると思えるのです。
愛という時間の流れの中で、人は育まれていきます。
しかし、現実の世界には悪なる存在、悪なる行為があります。
現時点において悪と思われる行為に対しては、戦う必要があると思います。
狡猾な悪人は、「人をさばくな。そうすれば、自分もさばかれることはないであろう」というイエス様の教えを悪用して、過去、自分が成した数々の悪事を批判されるのを恐れて自己防衛のために使います。
本人は気づいていないかもしれませんが、周りからみると本当に見苦しい限りです。
また、悪を放置しておくということは、周囲に対して大変な害悪が及びます。
悪なる心の傾向性と悪なる行為によって、悪霊か悪魔か知りませんが、そのような・・・・おっかない存在になっていくのでしょう。
実際、真理を一応学んだと思われる人が、真理とは真逆の行為をするとは、いったい何がどうなっているのでしょうか。
もしかしたら、霊的世界を確信していないのかもしれません。
あるいは、信仰心が実は見せかけだけで、心から主を信じていないのかもしれません。
真実、霊的世界を信じているならば、悪いことなど怖くてできません。
トルストイは「実際に存在するのは精神的なものだけである。肉体的なものはすべて単なる見せかけにすぎない。」といわれていました。
人間の本質は、
「霊は 全ての 全てにして 肉体は これ 霊の影」
です。
永遠の時間的な観点から考察しますと、愛は人間を育んでいくものです。
しかし、現実に起きている悪に対しては、正義の観点から戦うべきであると自分は考えます。
戦わなければ、正義は実現しないでしょう。
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