2016年09月12日

信仰心で人間認識の限界を超えることができる

信仰心で人間認識の限界を超えることができる


人間の認識できる世界は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。
カントは人間による理性認識は、五感から得られる経験的な認識の範囲に限定されていて、それを超えた世界に対しては、知覚することができないため、客観的に証明をすることができないとし、学問の対象から外しました。
五感で認識できる範囲に限定をかけて哲学を構築しました。

五感を通した経験的認識と理性認識が対応関係にあるため、知識としては限界があると思えます。
これは、知ることができる世界という限られた認識です。

しかし、神通力が備わった覚者は、通常私達が認識できない世界に立っています。

シュタイナーは自由の哲学のなかで、次のように書かれています。
「経験人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって現れてきます」

人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。
しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、絶対に正しい価値基準なのでしょうか、という疑問がわいてくるのです。

大切なのは、どの知覚内容もそこに潜んでいる現実の一部だけしか与えてくれないという認識です。
つまり、感覚器官を通して入ってくる情報は断片的なものであり、真実ではないということです。

これは、知ることができる認識領域と言えます。

しかし、覚者は私達人間とは違う世界を認識しています。
それは何を意味しているのでしょうか。
知ることができる世界を超えて、広大な信じる世界が広がっているということです。

私達は、観察を通して知覚内容を得ることができます。その知覚内容を特定の概念と結びつけて対象を認識しています。
視覚を通して入ってくる情報は無秩序で意味づけがされていない状態と言えます。

いまだ無秩序な知覚内容を特定の概念と関連づけることで、初めて意味のある認識として成立すると言えます。
知覚内容と概念を結びつける役割を果たしているのが思考の働きであるといえます。
知覚内容は思考を通して概念と関連付けがなされる、そこに初めて認識が生まれるということでしょう。

ここまでは知ることができる世界ですが、人間の認識に依存した範囲であると言えます。

しかし、その先に信じる世界、信仰の世界が広がっているということです。
ですから、宗教はカント哲学の先を行かなければなりません。
デカルトやカントを超えた世界こそ、真実の世界であると言えます。

これはカントやデカルトを否定しているわけではなく、それを超えた世界があるというところまで認識を広げなければならないということです。
信仰心があるということは、自分の限界を超えた世界に導いてくれる神仏の慈悲であると言えます。


しかも、肉体に宿った魂は感覚器官の制約を受けることになるので、神や仏の存在を手に取るように確認することができなくなります。

だからこそ人間には、尊い存在に対して謙虚になり信じることができる本能というべきもの、信仰する心が与えられているのだと思えるのです。
人間が人間である理由は、「五感で感知できるもの以上の尊いものを理解し、それに基づいて行動できる」という点にあります。
この尊い存在を信仰する本能と言えるべきものが、人間の魂に刻印された神の子としての証明になるのでしょう。

尊いものを信じることができる信仰心は、人間にとって哲学以前の根本論ですから、正しい宗教を信じ、その教えに基づいて自分を統御し、行動するという行為は、哲学を包含しつつそれを超えたものである、と思います。

ですから、信じる心がぐらついたときには、一時の感情で判断せずに冷静になるまで待つことです。
心が落ちつたときに、自分自身を振り返ることが大切なのだと思います。
心が静けさを取り戻したときに、選択や判断をしたほうが、間違いが少ないと思います。



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posted by ガンちゃん at 01:06 | Comment(11) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月11日

邪悪な霊に惑わされる人達

邪悪な霊に惑わされる人達

宗教を通して自分自身が努力精進し、神仏に近づこうとしている人は正しく宗教を学んでいる人だと思います。
特に霊的世界に参入する場合、自分自身の努力精進する姿勢、謙虚さ、忍耐力、そして正確な真理知識が必要であると思います。

しかし、単に宗教が好きな人、教学は軽視し、霊的現象のみが真実で善悪の価値基準であると考える人、このようなタイプの人間は、悪霊の惑わしを受けてありがたがる人達です。
おかしくなっていくタイプの人は、霊的現象のみをありがたがり、一般的に教学を軽視しています。
それは、その人が言っている言葉や文章で明らかにわかります。

確かに20世紀は、唯物論的考え方が主流となり、霊的現象つまり万人には確認の方法がない、客観的に論証できないという理由で、学問の対象から外されてしまいました。

デカルト御自身は、霊的体験を積まれたといわれていますが、思想的に精神と肉体を二分法的に分けてしまいました。
霊的(精神的)な部分は一般的にわからないので、わかるところだけを理解しようとしたということです。
また、カントも霊的なところは解らないので、自分が理解できる範囲に限定して哲学を構築したのでしょう。
ご本人はもちろん霊的世界や神仏の存在を否定しているはずもございませんが、後世の人達は、残された思想だけを学ぼうとしたということです。
それが結果的に唯物論につながってしまいました。

仏教にしても、神秘的な部分は理解が及ばず、わかる範囲に絞り込んだため、理解の仕方によっては唯物論と取られてしまい、間違った部分も教えとして時代を流れてきました。


このような自分に甘く、真理を自己の都合によって強引に曲げ解釈しようとする人は、むしろ霊的な現象が起きない方が、その人自身のためであるといえます。

信仰心の大切さをいろんな方が訴えていますが、初めて信仰の道に足を踏み入れるときに大切なものは何か、それはトマス・アクィナスの御言葉をお借りすれば、その教えが本当に神仏からきているものなのかどうかを判断する理性の大切さだと思います。

霊的現象があるかどうかではなく、基本教義が正しいかどうかを判断してから信仰の道に入りなさいということでしょう。

霊的なものにつられてくるような人は、危険性が高いと自分は経験上そのように思います。

更に危険性の高い人とはどのような人かと言いますと、客観的にみてあるいは法的にみても、明らかに間違った行為をしているにもかかわらず、人からそれとなしに注意あるいは警告されると、注意した人を悪魔呼ばわりする人です。

私から見れば、どのような精神構造をしているのだろうと悩んでしまいますが、自分の都合が悪いことを指摘されると、指摘した相手を悪魔呼ばわりするなど、話にならないとしか言えません。

肉体自体は、動物的属性あるいは本能が備わっていますし、死ねば鉱物と同じように崩壊してしまうでしょう。
視覚的な部分だけをとるならば、人間の尊さあるいは尊厳を導き出すことはできないでしょう。
大切なのは人間の肉体の内に宿っている魂、あるいは観念論哲学的には絶対精神、宗教的には霊的自己と言われる部分です。

動物と人間を分けているのは、精神です。
人間は霊的存在であるといわれていますから、霊的現象が起きたとしても特に不思議なことではなく、慢心することでもないと思います。

ですから霊的現象が身に及んでも自分の経験の一部として考えながら、努力し続ける姿勢、忍耐力が、邪悪な霊に惑わされないために必要な自助努力であると考えます。


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posted by ガンちゃん at 02:55 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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