2016年08月11日

龍樹の中論・八不中道

龍樹の中論・八不中道

中論の第一章・縁の考察には次のように書かれています。
「滅することなく、生じることなく、断絶にあらず、常住にあらず、一義にあらず、多義にあらず、来ることなく、去ることなき、戯論が寂滅して吉祥である縁起を、説きたまえる正覚の仏陀 に、説法者の中の最勝なる人として、私は敬礼します。」大乗仏典 

『中論』における否定的な表現の代表は、上記の「不生・不滅」「不常・不断」「不一・不異」「不来・不去」の八種の否定です。

これもまた、内容を理解するのは困難ですから、幸福の科学の思想と照らし合わせながら考察します。

「不生・不滅」生まれることなく、滅することのないもの、それが空です。
「不常・不断」常なるものでもなく、断ぜられるものでもない。
「不一・不異」いつなるものでもない、異なる(多様なる姿という意味)ものでもない。
「不来・不去」来るものでもなく、去るものでもない。

龍樹はこの八つの否定を通して現れる中道の境地を空の真髄とみました。

生まれることなく、滅することのない「不生・不滅」とは、生き通しの命、永遠の生命です。
生まれることと、滅することとは対立する概念であり、「生き通しの命」という一言をもって止揚統一しています。

「不常・不断」とは、永遠にそのままの姿が続くというわけではなく、死を通してすべてが無になるという意味でもありません。
物質世界の法則から離れ、霊的存在になることで自由性が増し、存在形式も変わります。
霊的世界において現在の状態が継続して続くというわけではなく、死ねば終わりといった唯物的な考えも間違えです。ヘラクレイトスが述べたように『変化』が真実であり、真理です。

「不一・不異」一なるものでもなく、多なるものでもないとは、人間の霊的生命の存在形式は、本体一・分身五という六人の魂グループが一体となって存在しています。
その中の一人が地上に生まれ変わり、地上で経験した知識、智慧をグループ全員で共有することができます。

「不来・不去」来るものでもない、去るものでもないとは、霊界世界とは、はるか彼方にある世界ではなく、現在住んでいる同一空間を共有し、並行して存在しているということです。
各人の心は、霊的世界とつながっています。物質世界にありながら、心は霊的世界という4次元以降の高次元世界に通じているといわれています。
天台智が、心は一念三千といわれたように、思いの方向性によって天国、地獄に通じてしまいます。肉体は物質世界の法則の中で生きていながら、心は霊的世界の法則に従って、存在しているといえます。

現象界と霊的世界が重なり合って、波長の同通するもの同士がお互いに影響を与えあっています。これが来るものでもなく去るものでもない説明になるかと思います。

八不中道とは私たち人間の永遠の生命と霊的実相世界の秘密を解き明かしているのです。
空と阿羅漢 参照
空とは虚無主義ではなく、この世を肯定することでもありません。両極端を否定し、霊的価値観と物質的な両方の観点から見ていく仏教的世界観であると思います。


中論の第二章には、<すでに去った>ものは去らない。<未だ去らないもの>も去らない。さらに<すでに去ったもの>と<未だ去らないもの>とを離れた<現にいま去りつつあるもの>も去らない。
「不来・不去」
さらに、現に生じつつあるものも、すでに生じたものも、未だ生じていないものも、決して生じない。
未だ滅びないものも滅びない。すでに滅びてしまったものも滅びない。現にいま滅びつつあるものもまた同様に滅びない。「不生・不滅」
相互依存、相互関係を説明しようとしていると自分には思えます。対立矛盾する観念と観念がお互いに依存して成立しています。
それぞれの観念が対立する観念を前提にして成り立っています。

すべての存在は自己の内部に対立を含んでいて、正(肯定)・反(否定)・合(否定の否定)による弁証法的な運動法則によって止揚統一されていきますが、弁証法的な運動法則も存在自体が無自性であるからこそ、相互依存によって成立していると言えます。

縁起(因縁生・縁生・因縁法)とは、<よって生じること>の意で、すべての現象は無数の原因と条件(縁)が相互に関係しあって成立しているものであり、独立自存のものではなく、諸条件や原因がなくなれば結果もおのずからなくなるということです。

なんであれ、この法則からはずれたものはないというのが仏教の主張です。

諸行無常であるからこそ縁起が成立するのであり、縁起しないものは無常ではありません。
もろもろの事物(諸法)は無自性であるがゆえに、現象界の変化も成立し、それ自体の本性を欠いているゆえに、縁起が成立します。

無自性、無常は縁起と同義に用いられています。ですから空は縁起であると言えると思います。
以上の説明で現象界は仮の存在であり、固定的で変化しない実体をもった存在ではありません。
この地上が本質を欠いた世界であるからこそ、実在世界、イデアの世界があるのではないかという考えがでてきます。


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posted by ガンちゃん at 15:33 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

天台智の思想2 摩訶止観

天台智の思想2 摩訶止観

魔訶止観の全体像はわかりませんので、その部分について考察します。

摩訶止観には、「如来は常に二諦(真諦と俗諦)によって法を説かれるのである」とあります。
真諦とは、霊的世界の価値基準、実相の世界のことだと考えます。
俗諦とは、地上的な物質中心的価値観、肉体を持つことで、動物的な欲望に振り回される世界と言えるかもしれません。
二諦によって法が説かれるといわれても、これだけでは、意味がわかりづらいので、何かと比較することで、わかってくることもあるかもしれません。

ドイツの観念論哲学ヘーゲルと比較してみます。

常に地上には、対立や矛盾が発生します。
それを一段上の段階で止揚統一しながら発展してく、弁証法的運動法則によって歴史が流れてきました。
正に対しての反、正と反の融合です。(正・反・合)
しかし、環境や条件が変化していきますと、また、新たな矛盾や対立が発生します。
それを更に止揚統一することで、世界は発展していきます。
この発展形式をヘーゲルは、弁証法と言っていたと思います。
更にヘーゲルは、あらゆる存在の根本には絶対精神があるといいます。
歴史を動かしてきた背後には、絶対精神があります。
絶対とは、同じ次元で対立している相対的なものを、統一している高い次元のものと解釈します。
精神とは、人間的な意味での精神ではなく、霊的なニュアンス、キリスト教的な神というイメージがあります。
神を哲学的に表現した言葉が、絶対精神であると言えます。

更に、ヘラクレイトスの思想を参考にしてみます。

ギリシャのヘラクレイトスは、論理的な一般原理としてこのように述べています。
「存在は非存以上の存在ではなく、非存在とおなじく存在しない。存在と無はおなじものであり、本質は変化である。真理は対立物の統一としてしか存在しない。」一切はながれる。なにものも存続せず、おなじままということはない。」

ヘラクレイトスは「なる」が原理であり、真実であると認識していました。
「存在は非存在とおなじく存在しない。『なる』は、あると同時にない」
存在と非存在は対立する関係で、対立する観念が一つに結ばれ、「なる」のうちには存在と非存在がともにあるとされています。
「なる」は生成だけでなく、消滅も含んでいますので、この二つがばらばらのものとしてではなく、同一のものとして「なる」のうちにある。と述べています 

ヘラクレイトスが「なる」と言われているのは、『変化』という意味だと考えます。
有が時間の流れの中で無になり、無から有が再び現れます。
有と無は別物ではなく、本質的なものの循環、あるいは現れ方の違いであると考えます。

さて、本題に入ります。魔訶止観には以下のように書かれています。
大乗仏典(中国・日本編) 摩訶止観より
「即空・即仮・即中であることを明らかにしよう。どうして即空なのかといえば、いずれも縁によって生じたものであり、縁生というのは核となり主となるものがない。主がないものは即空なのである。
どうして即仮なのかといえば、主がなくても生じてくるから仮なるものというのである。
どうして即中というのであるかといえば、法性のありようからはみだすことがないものは、すべて即中というものであるからである。」と述べられています。

原因や条件に依存して存在するものは、実体としての本質を持っていません。
ですから空であると言えます。
仮とは、実体がなくても感覚器官で確認することはできます。
本質的ではないといっても存在を認めることはできます。

空と仮を融合していくという意味で、ヘーゲルやヘラクレイトスの思想と共通するものがあると、私は考えています。

天台智が考えていた三諦円融とは以下の意味であると思います。

空諦とは、すべては固定的なものはなく、一定の時間の幅なかで存在があるように見えますが、それは流れゆく一瞬を見ているだけなのであって、永遠に存在が続いていくものではありません。
すべては、原因や条件に依存して存在しているのであり、それ自体で存在があり続けるものはない。
それゆえにすべてのものは空であるといえます。

しかし、地上にあるものが「空」だからといって、地上的な生き方を、ないがしろにしてよいという意味ではありません。
次なる真実が仮諦、仮の真実。
人間の魂が地上に生まれてくるのは偶然でなく、地上的な経験を通して魂を磨きながらその過程で、地上ユートピアをつくるという使命が各人の課題として与えられています。

ゆえにこの世は空であるからといって、否定だけすればよいというものではなく、仮諦という考え方が空諦の後に続きます。

しかし、仮諦に甘んじてしますと、霊的世界を忘れ、この世的な欲望や快楽に流されてしまうのが人間の弱さでもあります。
そこで仮諦をも否定しなくてはなりません。

空諦と仮諦の両方を否定した中道にこそ真実があるとする中諦こそ人間としての正しい生き方である。
という内容が三諦円融である、と自分は理解しています。

これが、天台智の魔訶止観の一部に書かれていた内容です。
如来がどれだけ高度な認識をもって、地上の人達を導いていこうとしているのでしょうか。

如来の偉大さには脱帽します。





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posted by ガンちゃん at 13:04 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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