仏説正心法語の中の真理の言葉・正心法語の中の一節に「自他は これ 別個に非ず 一体なり」と書かれています。
私達は、個別バラバラに存在しているように感じられますが、霊的に深いところでは、すべては神仏と同じ性質を有しています。
魂の奥底に、神仏と同じ性質を有しているという意味では、自分もなく他人もなく、一つであると考えることが可能です。
ヘーゲルは、概念こそ自然物の本質で、相手の概念を深く認識することで相手と一体になったのと同じことである、概念と存在は別のものでなく、自分の内にある概念を深く知ることで、相手にある共通する概念を知ることになり、それは自分と他者が一体になったのと同じことである。といわれていたと思います。
つまり、宗教的あるいは哲学的に自他一体を考えるとするならば、相手の概念を深く理解するということは、宗教的には愛であり、自分を深く知ることと相手を愛することは同一であるということが言えると思います。
ただ、この考えを現象的な結果と結びつけて考えると、悪に転化する可能性があるということです。
仏教には、「善悪不二」という考えがあります。
「善人であろうと悪人であろうと魂の深いところには、仏性があるのだ」という意味では、善悪不二は正しいと思います。
しかし、個人の行為の結果として現れた現象に対しても、善悪不二を言ったならば、社会的・政治的にも正義というものが成立しないはずです。
親鸞の悪人正機説では、悪人こそ救われるという内容が書かれているようですが、字面通りに受け止めていいわけではないでしょう。
悪人こそが救われるのであれば、地上から正義が失われ地獄界が展開するはずです。
善と悪を分ける力は、智慧であり教学を学ばなければ、仏の心とは何か、善とは何かがわかりません。
自分の力ではどうにもならない、仏の慈悲にすがる以外にないということはあると思います。
今の自分が、自力だけではどうにもならないとき、他力の慈悲にすがることは、宗教的にはあると思います。
しかしそれは、最終目的ではないということも確かであると思います。
いつまでも、他力にすがるということは、個人としての主体性を失い、物事の価値判断ができなくなり、結果、善悪があいまいになり、そのあいまいさから悪が発生すると自分は考えます。
善悪があいまいということは、自分自身に価値判断能力がなく、相手の言いなりになるということを意味しています。
一番問題なのは、自分は正しい正義のつもりで行った行為が、仏の価値秩序からみて正しくないという場合です。
例えば、なんでもいいのですが、著作権を無視して、海賊版を安く消費者に提供したとします。
一つ何万円もするような価値ある商品が、何千円で購入できれば、消費者にとっては善かもしれません。
しかし、一つの商品といっても、人々の知恵や開発費等、いろんなものが集約してできたものです。
それを、相手の許可も取らずに勝手にコピー版を大量生産して、安売り、自分は儲けている人がいたとしたら、皆さんはどう思われるでしょうか。
自分自身は努力や苦労をまったくしないで、他人様のものを許可なく勝手にコピーして、その利益を自分のものにしている人を、仏は許さないと自分は思います。
本人は、価値ある商品を安く提供して、消費者からは喜んでもらえているので、正しいと考えているかもしれませんが、実は著作権を無視した違法であり、他人の努力を自分の利益としているという点で奪う愛であり、地獄的行為であるということです。
ですから、目的が正義の実現であるならば手段の正当性も考えなければ、悪を犯している可能性もあるということだと思います。
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