2016年06月13日

私の霊的体験・・・自分で検証する

私の霊的体験・・・自分で検証する

私の数ある霊的体験から一部を紹介します。

本当は、自分の霊的体験など、他の人にとってあまり参考になるとも思えませんし、公の場で公表することでもないので、今まであまり書きませんでした。

しかし、一部のおじさんは霊現象が正しさの基準であり、御自身が神であることの証明であると勘違いしているようなので、私の霊現象を参考に、正しい霊的現象と間違った霊的現象を考えてみます。


白い強烈な霊光体験

私が夜、暗い部屋で瞑想(・・といっても本格的な瞑想はできません(笑))をしていた時のことです。
部屋が暗いのに、まぶたの裏が明るくなってきました。

不思議には思ったのですが、しばらく目を閉じていました。

目を開いたその瞬間、強烈な白い光が目に飛び込んできました。
目が痛くて開けていられなかったのですが、強烈な白い光でした。
例えていえば、野球のナイターのときに使用する照明を直で見たかのような強烈な白い光です。

白い光は消えましたが、目の痛みは残っていたので夢ではありません。

その後も、白い光がボール状になって、自分にぶつかってきたこともあります。

不思議な体験と言えば、不思議な体験ですが、事実は事実ですので、正直に書いてみました。

聖書には、パウロ(当時の名はサウロ)もダマスコに向かう途中、白く強い光を見た体験をしています。

もちろん、私とパウロを比較しているわけではありませんし、そこまで己惚れてもいません。

しかし、私には、パウロが経験した白い強烈な光をイメージすることができます。

おそらく、人には言わないだけで神秘体験をしている人はたくさんいるでしょう。

しかし、用心しなければならないことは、その神秘体験によって、自分は特別な人間だと思いたいという気持ちになることです。
悪魔・悪霊は、その人の自惚れや慢心の心を狙っています。

自惚れの心があれば、その霊的体験が天上界のものではなく地獄界のものであっても、喜んで信じてしまうでしょう。

霊的体験が天上界のものか、地獄界のものかを確認する方法は、体験後の言動や態度を見ればわかるところもあると思います。

その霊的な声やインスピレーションが、相手を慢心させるようなものであれば、当然、地獄霊からのものであると言えます。

お前は、八百万の神なのだ・・
お前は、幸福の科学の指導霊団の一人なのだ・・
お前は、如来なのだ・・

という声やインスピレーションは要注意です。

さらに困ったことに、このような声を聞いていないにも関わらず、自分は八百万の神々である、あるいは如来であると、妄想全開で突っ走るおじさんもいます。
自分が神になって説教を始めだします。

周囲の人は、また発作がはじまったか・・関わらないようにしようという感じです。

大事なことは、そのような神秘体験をしても、一つの大切な経験として受け止め、静かに修行する姿勢だと思います。

霊的体験をしても、それは自分の偉さにはつながりません。
それにとらわれないで努力する姿勢が大切だと思います。




ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 01:07 | Comment(2) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月12日

正しさの根拠は仏の心にあり

正しさの根拠は仏の心にあり


地上的な善悪の価値判断や人間としてやるべきこと、人間として生きていくうえでの正しい生き方を、宗教は教えています。
マルクス・アウレリウスは、「善い人間の在り方を如何について論じるのはいい加減で切り上げて善い人間になったらどうだ」と述べています。
論じることはできても、実践することは難しいということでしょう。

地上における善悪の価値判断の根拠は仏の心にあります。

あるいは、天上界にある善が、地上に降りてきて具現化されたと言えると思えます。
霊的世界において、天国・地獄があるということは、地上界において、良い行為・悪い行為があるということだと思います。

宗教は自由を抑圧するものではありません。

例えば、車社会の交通ルールと同じす。
もし交通ルールがなければどうなるでしょうか。
自分勝手に自由に走れるから自由だと考えたならば、大変な事態になりますよね。
どこから車が飛び出てくるかわからないし、危険が増すばかりでしょう。
何をしてもかまわないという責任を無視した自由は結局、自分と相手を不幸にする考え方であると言えます。



無神論が間違った考え方である理由は、仏や神を否定することで、善悪の根拠が不明確になり、人間の尊厳の根拠がわからなくなるからであると思えます。

ソクラテスは、「一番大切なことは、単に生きることではなく、善くいきることである」と言われています。

しかし、無神論や唯物論的な考え方からでは、人間としての正しい生き方を導きだすことはできません。

宇宙で一番大事な教えは何かと言われたら、『愛』であると自分は考えます。
愛は、時間や空間をあらしめている力であり、それは単に思想的、宗教的に言うのではなく、現実的な物理的な力であり、存在の根拠です。
自分は、勝手に生きていると考えて人生を渡っていく人と、自分という存在は、神の愛で生かされていると考えて人生を生きていく人では、生き方が全く違ってきます。

宇宙の生命体の中で力がすべてと考えている爬虫類型宇宙人がいたとしても、その存在をあらしめている神の愛があるということです。

愛の力を少しでも知ることができたなら、謙虚になる以外になくなります。
人に対しての傲慢な態度や、自分が偉いと思いあがった言動がでてこなくなると思います。

私達は、いつでも仏の方向を向いている必要があります。

小さい子供でも優しそうな人には自分から寄ってきて、話しかけてくるでしょう。我々も神仏に向かって心を開いて、霊的な生き方が日常的にできるように努力していく必要があります。

全宇宙の生命体は、深いレベルでつながっている存在(宇宙樹)でもあります。

肉体的には別々であっても、深い霊的な視点を持つべきです。
目に見えない仏や霊的なものを信じる、それゆえに信仰心が大切であると思います。

アウグスティヌスは「信仰は目に見えぬものを信ずることである。そして信仰の報酬は信ずるものを見ることのできる事である。」と述べています。

星の王子さまも言っています。
「たいせつなことは、目には見えない」と・・・

また、マハトマ・ガンディーの自伝か何か忘れましたが、「宗教心を持たずしては、何人も生きられない。」と言われています。


たいせつなことは、神仏を信じることであり、正しさの基準は神仏にあるということです。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 22:45 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。