古代エジプトに、図書館司書エラトステネスという人物がいました。
二千二百年以上前の人物で、夏至の日に井戸の底に太陽が見えるという話しを聞き、大いに関心を持ちます。
井戸の底に太陽が見えるなら、太陽は井戸の真上に来なければなりません。
そして、もし太陽が井戸の真上にあるのなら、まっすぐに立っている柱には影ができるはずがありません。
ところが、彼が住んでいるアレキサンドリアでは、夏至の日にも柱に影ができます。
紀元前三世紀、アレキサンドリアはもとより、世界中の科学者は地球が丸いとは誰も考えていませんでした。
しかし、エラトステネスは、もし太陽の光が直進し、大地が平坦ならば、どこにいても夏至の日には影ができないはずだと推論しました。
ある地点では影がなく、他の地点では影ができるとすれば、論理的な説明は一つしかありません。
大地は湾曲しているはずであります。
つまり、地球は丸くなければならない。
エラトステネスの素晴らしさは、誰でも見逃してしまいそうな、日常的な小さな事実から、真理を発見したことであると思います。
「視野の中にあっても目に見えないものはたくさんある。知覚の中に入ってこないからだ」とある哲学者は述べていました。
五感によって受け止めた対象は、どのように知覚されたかによって認識が違ってきます。
つまり、人は同じ環境に置かれていながらも、違った認識をする存在であるということです。
フランスのモンテーニュは「人生の価値は時間の長さではなく、その使い方で決まる。長生きしてもむなしい人がいる」と言っています。
つまり、毎日を適当に生きている人生と、問題意識を持って生きている人生では、長生きしたかどうかに関係なく人生の結果が違ってくるということです。(霊的世界を含めて)
仏教においても縁起の理法によって、自分で心の中に蒔いた種をいかに育てるかによって人生が変わってくると説かれています。
哲学者のジェームズ・アレンも次のように述べています。
「すぐれた思考や行動から悪い結果が生まれることはない。間違った思考や行動から良い結果が生まれることもない。それはトウモロコシからトウモロコシ、イラクサからはイラクサしか育たないのと同じである。人はこの自然界の『原因と結果の法則』を理解しているにもかかわらず、自分の人生にその法則を活かせる人のなんと少ないことか」と述べています。
ソロモン王は「人は心に思い描いているとおりの人間になる」と言われています。
この言葉はいろんな哲学者や心理学者、また偉大なる宗教家が教えている真理であります。
知識として知っていながら、自分がもし変わっていないとすれば先ほど述べた「視野の中にあっても目に見えないものはたくさんある。知覚の中に入ってこないからだ」ということになります。
あるいは、環境に支配された人生であると言えるかもしれません。
いろんな勉強をしても、学んだ内容を実践しなければ、現実が変わらないでしょう。
トルストイは、「誰でも世界を変えたいと思うが、自分を変えようと思う人はいない」と述べていますが、それほど自己変革は大変なことであると思えます。
たしかに、人生は一冊の問題集であると言われていますので、そう簡単に人生の問題に解決がつくと言うわけにはいかないとは思います。
不思議ですが、自分の現時点での掴んだ悟りに応じた諸問題が起きてくるものです。
アルバートアインシュタインは「いま直面している問題は、その問題が発生した時と同じレベルの発想では解決できない」と言っていますが、自分の成長にともなったそれ相応の問題が次から次へと出てくるということでしょう。
人は、自分の頭に思い描けないことは実現できないと言われていますが、いろんな局面でアイデアをひねりだしながら、精神的成長を常に心がけなければならない存在かもしれません。
精神的な強さを持たないと、他人の言葉や意見を頼りにして、主体的人生を送ることができず、流される人生を送ることになりかねません。
人は、環境に支配される存在ではありますが、それを乗り越えていける存在でもあります。
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