2016年06月27日

民主主義の理想 複数の価値を認め、考えることができる人が自由の主体であるべき

民主主義の理想 複数の価値を認める

民主主義には二つの流れがあると思います。一つは「結果平等」に流れるスタイルで、国民一人一人が享受できる結果を平等にしたいという考え方です。
もう一つは結果平等ではなく、「機会やチャンスの平等」を重要視する考え方です。
結果平等に強く引かれていきますと共産主義なります。共産主義とは共同で財産を持つという考えですから、生産手段を国家が管理するという考えでしょう。
工場や新聞社、放送局などすべてが国の管理下に置かれることを意味しています。
もう一点をあげるとするならば私有財産の否定ということになります。財産は平等でみんなのものであり個人としては財産を持ってはいけないというものです。

19世紀頃に始まった産業革命よって、世界中に貧民層が生まれてしまいます。それによって、資本主義が進めば進むほど貧富の格差が広がってしまうと思われてしまいました。
そのような時代の流れの中で、私有財産は悪という社会主義思想が正しいと思われてしまいます。

1917年にロシア革命によって世界に初めて社会主義経済、私有財産や相続権を否定する国が誕生したのです。
ロシア革命では、ロマノフ王朝の皇帝一家は一人残らず殺されてしまいます。皇帝の馬まで殺されたというのですから社会主義は恐ろしい思想であると思います。20世紀の文明にあって、国の皇帝が皆殺しにされるということはかつてなかったことです。

一方、機会やチャンスの平等につながる民主主義とは自由主義であります。自由主義とは生まれついての身分や財産、親の職業などに関係なく、すべての人に選択の自由が存在する社会です。
自由主義とは多様なる価値観を求める考え方であり、複数制の中から生じてくると言われています。

古代にギリシャ哲学者たちは民主主義をどのように考えていたかといいますと、民主主義は貧乏人には有利に働いて、お金持ちに対しては、厳しい制度であると考えていたようです。
寡頭制というものがありますが、これは少数支配でお金持ちに対しては有利に働く制度です。

アリストテレスは、少数支配が徳を中心とする制度になると貴族制になると考えていたようです。

しかし、この民主主義にも最大の弱点があると思います。

それは、成功した人、お金持ちの人達に対しての嫉妬心や猜疑心に基づく政治になっていくことです。

成功者に対して嫉妬心を抱くシステムになっていきますと、働かなくても適当な理由で国からお金が支給され、まじめに働けば損をし、働かなければ得をするという方向に向かってしまいます。
民主主義が堕落した形、衆愚制にむかうことになります。

民主義の優れている点、機会やチャンスの平等を保障することで貧乏な家庭からであろうが、大金持ちの家庭であろうが、自助努力によって道を切り開いていく可能性があり、それによって成功すれば社会的にも尊敬される立場に上がっていけるチャンスがあるわけです。

機会やチャンスによって繁栄を享受できることが民主主義の長所とするならば、その反面としての弱点はどこにあるのでしょうか。
それは「理性に基づいた支配」よりも「感情による支配」があるということです。
特に日本人は感情に支配されやすいと言いますか空気によって状況を判断しやすいのではないかという感じをうけます。

民主主義は多数決の原理によって成り立っていますから、政治などは感情によって動きやすいという危険性があります。
その為に少数派の良く勉強をしている理性的な人の意見に対して、まったく耳を傾けようとしないで、感情的に物事を判断しようとする大多数によって政治の方向性が決まってしまいます。

そのように民主主義の弱点を克服していくには、どうしていくべきか。
考えることができる人が、自由の主体であるべきだと「政治哲学の原点」で述べられています。

人間にはいろんなタイプの人がいますので、すべてを一元的な管理下に置こうという考え、全体主義的な考えには無理があります。

多様な価値観や考え方、複数制を認めたうえで、議論をしながら最大多数の幸福を実現する方向性を選択することが、個人及び国家にとって幸福な世界ではないかと考えます。

民主主義が繁栄するための条件は、個人が「考える人、考えることができる人」が前提であり、更に神仏の心を知っていること、あるいは、真理を学ぼうとうする姿勢が大切であると思います。

神仏の光を体現している真実の宗教と政治が融合した時に、国は繁栄し国民は最大の幸福を享受できると考えます。



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posted by ガンちゃん at 01:25 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年06月21日

知覚と概念の関係

知覚と概念の関係

人間の感覚器官がいかに不確かなものなのかという認識をもつ必要があります。

眼の感覚器官に関しては、一定の周波数によって、波長の長い方から、赤〜紫までの色が光のスペクトルとして知覚されます。

しかし、スペクトルの光線領域は赤や紫を超えて拡がっているのに、一定以上あるいは、以下ですと眼は光のスペクトルとして知覚できません。
しかしその化学作用は認めることはできます。

例えば紫外線は、色として知覚できないと思いますが、振動数が高い紫外線はエネルギーも高いので、あまり紫外線にあたっていると、お肌にはよくありません。
これに類似した諸現象の考察によって、次のような観点に行きつくと思います。

人間の知覚世界の範囲は、人間の感覚能力の範囲内に限定されています。

人間がこれまでの感覚以上の感覚を持ったならば、あるいは、そもそも人間に別種の感覚器官が与えられているとするならば、世界はまったく別の姿をとって現れてくると思います。
シュタイナー自由の哲学 参照

人間が観察できる範囲は、人間の身体組織に属する感覚器官に働きかけるものに限られます。

しかし身体組織の制約を受けた知覚内容が、現実に対する何らかの基準になると考えるのは正しくありません。

なぜなら、新しい感覚器官を獲得するたびに、現実についての新しい姿が現れてきてしまうからです。

シュタイナーは、どんな種類の感覚を持ちえたとしても、知覚内容を思考しつつ概念と結びつけることをしなければ、人間は現実を手に入れることができませんと述べています。

どの知覚内容もそこに潜んでいる、現実の一部だけしか与えてくれません。
この点を、しっかり認識しておきませんと、物がすべてという唯物論者になる可能性が高いと考えます。

「動物にも備わっている魂を、精神に作り変えるのは思考の働きである。」とヘーゲルは述べられていたと思いますが、思考の働き、思考内容こそが神や仏が持つ性質と同質のものであり、思考内容を高度なものにしていくことが、人間が神に近づいていくための修行なのではないかと思います。

我々の前に事物が謎めいて現れてきますが、それは事物そのものの成立過程に立ち会っていないからでありますが、思考を通して初めてその成立過程を考察することが出来るようになるとシュタイナーは言われていたと思います。

成立過程は知覚することができなくても、論理的思考を通し考察することで、因果関係を見抜くことができるのではないかと思います。

シュタイナー認識の出発点は思考であり、理念や概念からではありません。
理念や概念は思考を前提として初めて獲得できるものです。

ヘーゲルは概念から出発していますが、この点がシュタイナーとの違いであると思われます。これに関しては、別途考えてみたいと思います。

我々はまず、観察を通して知覚内容を得ることができます。しかしその知覚内容は、無秩序でバラバラな混沌の状態にあります。そのバラバラで無秩序な知覚内容を統一的にまとめ上げるのが思考であると考えます。

知覚内容は思考を通して概念と結ばれます。概念から照らされる光によって初めて知覚内容に意味付けがされるのであろう考えられます。

しかし観察による知覚内容が増えるに従って、初めにあった知覚内容と、矛盾対立が生じてきます。
知覚内容の範囲が広がるにつれて、これまで信じていた世界像を訂正しなければいけなくなります。

新たな知覚内容に対して、今までの概念では意味付けができなくなり、自分の内に対立が生じます。
この対立、矛盾を克服していくことによって新たな概念が形成されていくことになると思います。
対立矛盾を止揚統一していく思考過程こそ、魂の進化なのではないかと思います。


このように弁証法的な過程を通ってより高度な概念が形成されていくのではないかと思います。
知覚内容は概念によって助けられ、概念は知覚内容によって高度化していくのであると考えます。

また、感覚器官は不完全な為、総体の中の一面、断面しか確認できなせん。

感覚器官でとらえる現象は、変転変化するために、限られた時間内でこれが真実だと認識してしまうのは過ちのもとであると思います。
例えば、種から芽が出てやがて花が咲きますが、種だけを見てこれが花の本質だと認識したとしたら大変な間違いだと思います。

一定の時間の枠内で、その対象の姿が真実をうつしていると考えてはいけません。

いずれにしても知覚内容は思考を通して概念と結びつけることなしに、本当の意味で現実を認識することはできないと思われます。

花の概念を認識するには、まず花の知覚内容を持たなければなりません。
その後に概念の総体の中から特定の概念(この場合、花の概念)を取り出してきて、知覚内容に意味付けを与えていくことになると思います。

人間の思考について深く考えることで、唯物論といった幼稚な考え方に惑わされることは無くなるのではないかと思います。



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posted by ガンちゃん at 01:45 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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