ドイツ観念論哲学のヘーゲルの崇拝者のひとりである、エストニアの貴族ボリス・ド・イクスキュルという人がいました。
もともとロシアの騎兵隊長でありましたが、フランス軍との戦いの為、心身が疲労し、戦争による過労をいやすために、軍隊を退いて学問をしようと試みました。
そしてヘーゲルの著作をなにも読まないうちに、この大先生についたら、短期間のうちに学問の精髄を学び取ることができるであろうと想像し、ハイデルベルクにやってきます。
いよいよ空想に描いていた大先生を訪れることにし、内心はおどおどしながらも外見上は自信ありげな様子で教授のところに出かけていきました。
さぞかし近寄りがたいほど偉大であろうと思っていたヘーゲルは、何の飾りけもなく優しく親切に対応してくれます。
そんなヘーゲルに惹かれて講義の手続きを済ませると、行き当たりばったりの本屋に飛込み、ヘーゲルの著書を買い込みます。
自宅でソファーにでも寛ぎながら、その書物を開いてみましたが、読めば読むほど何を言っているか分からなくなり、たった一つの文書を前にして数時間も苦しんだあげくに、嫌気がさして本を放り出したりします。
講義には出てはみたものの、自分でノートしたことすら理解できずにいましたが、これは予備知識がないからだと悟ります。
思い余ってヘーゲル教授のところに出かけて行って「ヘーゲル教授の書物も講義もさっぱりわかりませんがどうしたらよろしいのでしょうか」と尋ねました。
ヘーゲルは彼の言葉をじっと聞いて、懇切に指示を与え、準備的な勉強をするためにいろいろと忠告してくれました。
という話が残っています。
ヘーゲルの人柄の一面をのぞかせる出来事であります。ヘーゲルは人格的にも素晴らしいと思えますが、ボリス・ド・イクスキュルが軍隊から哲学を志しながら、自分のわかる範囲で努力している姿に感じるものがありました。
人間はいくら年齢を重ねても、思いを変えた時点で人生のやり直しがいつでもできるのであると思えます。
仏教的には、ある一定の年齢まで行くと魂的に有の状態になり、今世、地上に生まれて身に付けた傾向性が魂の深い部分までしみ込んで固まってしまい自分を変えようとしなくなると教わっています。
常に自己変革をするということは、ヘーゲル的に考えますと、自分の中から、自分を否定し、自分に対立するものを生み出し、自分自身の、対立・否定関係を克服することによって、いっそう高次の段階に進むという弁証法に則って発展していくということです。
自己の否定とは自分の自己限定のことだと理解しています。
例えば、自分が偉大な存在だと思っている方もいるかもしれませんが、釈迦の本心にも書かれていますように、天使や光の指導霊になる為には、大変な努力と実績が要求されます。
そのような方たちを目指すというのであれば素晴らしいことだと思いますが、現時点で自分がそのような偉大な存在だと思い込んでいたら慢心して相手を見下し努力しなくなり自分自身の進歩がなくなってしまいます。
自分を変えるのに、遅すぎることはないと一般的にも言われていますので、常に自分自身の自己規定、限定を否定しながら、今の自分より一段上を目指すことが大切であると考えます。
ヘーゲルの一例を引いて、ヘーゲル自身の人格の素晴らしさも書きましたが、総裁先生のある著書で、その人自身の悟りが本物かどうなのかを、イミテーションとダイヤモンドの例を使って書かれていました。
自分の現時点での実力以上に自分を良く見せようとするのは、結局、自分自身に確固とした自信がなく、自分を必要以上に光を強く見せようとして、外に向かって自己主張しているイミテーションのようでありますが、結局イミテーションとダイヤモンドの価値は全然違うのと同じように、必ず実力以上に自分を良く見せようとする行為は、相手に見抜かれて、信頼を失っていきます。
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