2016年03月20日

元信者さん 悟りには段階があるのです。

元信者さん 悟りには段階があるのです。

元信者さん、概念や思考することを否定し、無思考のとき悟りが得られるということが、貴方の悟りと考えていいのですね。

もちろん、私自身が悟っているわけではありませんから、悟りの話をする立場にはないかもしれませんが、会員をやめた方から、何回かコメントをもらったことがあるので、私の立場で貴方の考え違いであると思える箇所を指摘しておきます。

本格的な瞑想をして空に入ったようですが、結論は概念の否定ということであり、悟りを得ると、善悪や人と比較する分離感がなくなり、すべては一つということが貴方の悟りですね。

確かに、大乗仏典には「空」の説明として、特に維摩経には、貴方が悟られたように、他を比較し分別するのは人間であって、物自体には価値があるとかないとか比較するべきものではなく、空(無自性)であるという内容が書かれていたと思います。

しかし、何も考えようとしないで瞑想しても、それは居眠りしているのと同じであると自分は思います。
いくら瞑想しても、最初の段階で善と悪を分ける判断力、あるいは真理知識を学ばなければ、瞑想しても迷走するでしょう。
過去の哲学者、偉大なる科学者はすべて、普通人の何倍も思考しながら、地上に新しい価値を創造してきたのだと自分は思います。

もし、正しい意味での悟りを得たのであれば概念を否定する結論には至らないでしょう。

例えば、私たちは突然、物質が外部から力やエネルギーを加えないで浮上したら驚くでしょう。
もしかしたら、小さい子供は面白がるかもしれません。
この違いは、どこにあるのでしょうか。
もちろん、大人と子供では経験則に違いがあります。

しかし、視覚的には、大人も子供も同じように知覚しているはずです。
外部から得た知覚内容を照らす概念が大人と子供では違うからであると自分は思います。
一般的教養を持つ大人は、引力、重力についての概念を持っています。
「引力は、2質点を結ぶ直線上にあって、それぞれの質量の積に比例し、その間の距離の2乗に逆比例する」という概念と知覚内容を思考によって関連付けて対象を認識しようとします。

ですから、突然、物体が浮上したら大人をびっくりするのです。
小さい子供には、知覚内容を結びつける引力という概念がないので大人のように驚かないということです。
人間は、概念を否定して事物を認識することはできません。
元信者さんがおっしゃるように、何も考えずに瞑想するだけでは、概念は自然に発生しませんし、本当の意味における「空」の世界を体感することもできないのではないかと自分は考えます。

貴方が言っていることは、すべての人間に仏性があるから、すべての人は仏であると言っているのと同じです。

ですから、貴方を否定するわけではありませんが、考え方のなかに間違いが含まれていると自分は思います。




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posted by ガンちゃん at 01:35 | Comment(1) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年03月14日

神に至る認識

神に至る認識

現在の自分が、霊的に進化していくための道のりを考えてみます。
まず、人間は真理における正しい概念を形成する必要があると考えられます。
ある事物に対しての概念を得ることで、その事物に対しての理解が可能になると思います。

人間は、ある事物によって表象を抱いています。
その対象を取り去られたとき、人間は表象のみを所有しているといえます。
対象がなくなっても、表象は記憶の中に定着しています。
しかし、単に表象のみにとどまっていたのでは、対象を認識することができません。
概念の形成に至らなければなりません。
概念と表象の違いを明確にしておく必要があります。

例えば、私たちが視覚を通して、円を見たとしましょう。
私たちは、円の表象を記憶に留めることができます。
しかし、この段階ではまだ円の概念を得ることができません。
円の概念を得るためには、「円は円周上のすべての点が、中心点から等距離にある図形」という認識を獲得する必要があります。
概念を得ることで、私たちは初めて、その事物の理解を得ることができるようになります。
大きい円、小さい円、赤い円、青い円等、多くの円が存在しますが、「円」という概念は一つしかありません。
概念の総体の中から特定の概念を選び出し、対象と結びつけることで事物の認識が可能になるといえます。
今の例で言いますと、円という概念によって様々な円を包括的に理解することができます。

真理知識についても同じことが言えます。
基本的真理知識の概念を形成する過程で、間違った理解によって真実とは違う概念が形成されたらどうなるでしょうか。
それ以降の真理知識をいくら学んでも、個人において正しく真理を理解することが、きわめて困難になると考えられます。

例えば、地上と霊界という次元の壁を越えて、波長同通の法則があります。
仏光物理学の第三テーゼには、仏の光には周波性があり、高周波は高周波と通じ、低周波は低周波と通じるといわれています。黄金の法 参照
地上人であっても、高級霊と同様の意識をもたなければ、高級霊とは感応できません。
反対に、低級霊と感応する人は、その意識も低級霊と同調しているということです。

これが、真理における「波長同通の法則」の正しい概念です。
私たちは、真理の概念の総体の中から波長同通の法則という概念を特定して、その人なりの発言を判断します。
もし、自分は八百万の神々の一人であるとか、私は如来であるという発言をした人がいたとします。
私たちは、その人の発言から認識力や真理の理解度を判定し、如来と言われた高級霊の思想と比較し検討します。
そして、これはとても如来の発言ではないと判断し、波長同通の法則を根拠に、その人物の自称如来発言を、まったくの妄想であると判断することができます。

次に私たちに必要なこととは何でしょうか。
この地上において、普遍的なものと過ぎ行くものとを区別する必要があると思います。

ギリシャのプラトンにしても、仏教的真理にしても、地上的なもの、要するに感覚的な対象はすべて、夢・幻、あるいは虚妄であるといわれてきました。

感覚的対象は過ぎ行くものであり、実在ではありません。
注・実在ではないといっても、それを否定すれば真理が得られるわけでもありません。

先ほどの概念と関係があると思いますが、たとえ霊視ができたとしても、それで自分は特別な人間であると慢心し、悟ったと思ってしまうととても危険であると考えます。
霊を見たということは、哲学の書物を見たのと同じであって、それをどのように理解し判断するかは別問題であるということです。

高次元の領域において、教師あるいは神であるためには、高次元に対応した感覚が開かれている必要があると思えますが、それだけでは、不十分であるということです。
私たちが存在している、三次元的地上世界において、健全な感覚を持っているというだけでは、学者や先生になれないように、霊的視覚を持っているというだけでは、霊界の指導霊になることはできません。

実際に、現実世界は、低次元の物質的世界も高次の霊的世界も同一の根本的存在性の二つの側面にすぎません。

ですから、低次元の認識において、無学あるいは間違った認識をしているものは、高次元の事柄においても無学であるにとどまります。





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posted by ガンちゃん at 00:16 | Comment(6) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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