元信者さん、概念や思考することを否定し、無思考のとき悟りが得られるということが、貴方の悟りと考えていいのですね。
もちろん、私自身が悟っているわけではありませんから、悟りの話をする立場にはないかもしれませんが、会員をやめた方から、何回かコメントをもらったことがあるので、私の立場で貴方の考え違いであると思える箇所を指摘しておきます。
本格的な瞑想をして空に入ったようですが、結論は概念の否定ということであり、悟りを得ると、善悪や人と比較する分離感がなくなり、すべては一つということが貴方の悟りですね。
確かに、大乗仏典には「空」の説明として、特に維摩経には、貴方が悟られたように、他を比較し分別するのは人間であって、物自体には価値があるとかないとか比較するべきものではなく、空(無自性)であるという内容が書かれていたと思います。
しかし、何も考えようとしないで瞑想しても、それは居眠りしているのと同じであると自分は思います。
いくら瞑想しても、最初の段階で善と悪を分ける判断力、あるいは真理知識を学ばなければ、瞑想しても迷走するでしょう。
過去の哲学者、偉大なる科学者はすべて、普通人の何倍も思考しながら、地上に新しい価値を創造してきたのだと自分は思います。
もし、正しい意味での悟りを得たのであれば概念を否定する結論には至らないでしょう。
例えば、私たちは突然、物質が外部から力やエネルギーを加えないで浮上したら驚くでしょう。
もしかしたら、小さい子供は面白がるかもしれません。
この違いは、どこにあるのでしょうか。
もちろん、大人と子供では経験則に違いがあります。
しかし、視覚的には、大人も子供も同じように知覚しているはずです。
外部から得た知覚内容を照らす概念が大人と子供では違うからであると自分は思います。
一般的教養を持つ大人は、引力、重力についての概念を持っています。
「引力は、2質点を結ぶ直線上にあって、それぞれの質量の積に比例し、その間の距離の2乗に逆比例する」という概念と知覚内容を思考によって関連付けて対象を認識しようとします。
ですから、突然、物体が浮上したら大人をびっくりするのです。
小さい子供には、知覚内容を結びつける引力という概念がないので大人のように驚かないということです。
人間は、概念を否定して事物を認識することはできません。
元信者さんがおっしゃるように、何も考えずに瞑想するだけでは、概念は自然に発生しませんし、本当の意味における「空」の世界を体感することもできないのではないかと自分は考えます。
貴方が言っていることは、すべての人間に仏性があるから、すべての人は仏であると言っているのと同じです。
ですから、貴方を否定するわけではありませんが、考え方のなかに間違いが含まれていると自分は思います。
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