2016年02月21日

仏教的悟りと正義の法について

仏教的悟りと正義の法について

天台智の摩訶止観には以下のように書かれています。

「如来は常に二諦(真諦と俗諦)によって法を説かれるのである」。
これは、三諦円融の考え方、弁証法的運動法則の基本的考えであり、仏教的には、中核的な教えであると思います。

更に、中論には『「真実の法とそれを説く者と、それを正しく聞き取る者とは、ともに得難いものだ」。すなわち、「生死は有辺に非ず、無辺に非ず」、「実相は難にも非ず、易にも非ず」、「有にも非ず、無にも非ず」、これを真実の法となづけるのであり、よくこのような教えを聞くことができるものを、真に(如来の)説を聴くものとなづけるのである。』と書かれています。
両極端を否定した中道的観点で仏教的には、正しさの基準であると言えると思います。

否定の否定は単なる肯定とは意味が違います。
極端なものの考え方には真実はなく、正しさは中道にあるという説明だと思います。

更に仏典には、仏の正しい基準というべきものが書かれています。
大乗仏典(中国・日本編) 摩訶止観より
「即空・即仮・即中であることを明らかにしよう。どうして即空なのかといえば、いずれも縁によって生じたものであり、縁生というのは核となり主となるものがない。主がないものは即空なのである。
どうして即仮なのかといえば、主がなくても生じてくるから仮なるものというのである。
どうして即中というのであるかといえば、法性のありようからはみだすことがないものは、すべて即中というものであるからである。」と述べられています。

仏教的正しさ、三諦円融とは以下の意味であると考えます。
空諦とは、すべては固定的なものはなく、一定の時間の幅なかで存在があるように見えますが、それは流れゆく一瞬を見ているだけなのであって、永遠に存在が続いていくものではありません。
すべては、原因や条件に依存して存在しているのであり、それ自体で存在があり続けるものはありません。ですから、すべてのものは空であるといえます。

しかし、地上にあるものが「空」であるからといって、地上的な生き方をないがしろにしては、生まれてきた意味がありません。
次なる真実が仮諦、仮の真実。人間の魂が地上に生まれてくるのは偶然でなく、地上的な経験を通して魂を磨きながらその過程で、地上ユートピアをつくるという使命が各人の課題として与えられています。ですから、この世は空であるからといって、否定だけすればよいというものではありません。
仮諦という考え方が空諦の後に続きます。
しかし、仮諦に甘んじてしますと、霊的世界を忘れ、この世的な欲望や快楽に流されてしまうのが人間の弱さでもあります。
そこで仮諦をも否定しなくてはなりません。

中諦とは、空諦と仮諦の両方を否定した中道にこそ、真実があるとする生き方です。
という内容が三諦円融であると自分は理解しています。

仏教的正義とは、地上的価値観がすべてではなく、霊的世界の価値観がすべてではなく、両方をバランスよく見ていく中道的な考えであると思えます。


正義の法は、いろんな論点があり簡単に”これが正義です”と定義できません。
正義の対極にあるのは、もちろん悪です。
現代的な悪とは何でしょうか。
それは、無神論であり、唯物論であると考えられます。

真実の平和には正義が必要です。
正義とは何かという観点は、地上から悪を減少させ、正しいものを広げていくことです。
仏教的にも、善を押し広げ、悪を押しとどめることの大切さが説かれています。

悪に屈服する平和、悪に懐柔される平和、悪と融和する平和は奴隷の平和と言われています。

私たちは、自分自身が正しく生きようと努力すると同時に、正しさというものを押し広げていく必要があります。

それぞれの国、民族は、自分たちの平和を求めているでしょう。
それは決して悪いことではありません。
しかし、それぞれの国の平和が他の国にとっての平和を阻害する場合もあるでしょう。
他の国を侵略し、資源を奪い取ろうとする考えは、自国の平和以外に考えていませんから、神の正義にかなっていません。

ですから、上記で書きましたが、一段高い段階の正義でもって、それぞれの国の正義を止揚統一していく必要があると思います。
それは、難しいことであり、智慧が介在しなければ神が求めている正義を、地上において具現化することはできないでしょう。


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posted by ガンちゃん at 22:56 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年02月14日

宗教が尊敬される国家

宗教が尊敬される国家

日本には民主主義が繁栄しているように見えますが、日本の民主主義の基礎、土台にあるものは虚像といいますか、本物であるとは言えないと思います。
本来、民主主義の基礎にあるべきものは、「神の心」「仏の心」であるはずです。
民主主義が繁栄した時代といえば、やはりギリシャを思いうかべます。

プラトン・ソクラテスやそれ以外のギリシャの哲学者の本を読むと、当時のギリシャ人は間違いなく神の存在を信じていたと確信します。
神の御心はどこにあるのか、人間として尊い生き方とはどのようなものなのか、当時のギリシャ人は神の御心とはどこにあるのかという精神性を持っていたと思います。

神や仏という存在を否定した上にある民主主義はどのようなものなのでしょうか?唯物的な人たち、神や仏などあるものかと思っているような人たちがつくる民主主義とは衆愚制であると思います。

一部の独裁者によって惑わされる全体主義が始まるのではないかと考えます。日本の民主主義は物質的繁栄のみであって、その中に心がないと思います。
精神性や理念の部分が明らかに欠落しており、形だけの民主主義、形だけの人権になっています。

人権が尊い根拠は、人間は仏、神の子であり、肉体ではなくその中に宿りたる魂、その魂の核の部分が神仏と同じ光を宿しているという点で人間は尊いとされています。

肉体のみを尊いと考えると、殺された人より、殺した人の方を優遇しようと考えたりします。
殺された人はすでに肉体が死滅したので終りなのだから、罪を犯した、生きている方の犯罪者をどうすればよいかだけを考えるようになります。
価値観が全くおかしなことになり、被害者より加害者を優遇するということが法的に合法化されるのであるから、唯物論とは恐ろしいものであります。

マックスウィーバーという社会学者は『古代ユダヤ教』という本で、「民主主義の時代は宗教が繁栄する」と書いています。
1人ひとりが神の心、仏の心を求めて活動するときに、社会は繁栄すると言われていました。それゆえに民主主義は宗教と一致するのです。
日本の土台を築いた聖徳太子は、日本に仏教を取り入れ神道と融和しながらこの国を運営してきました。外側は日本神道、中身の部分、教学は仏教という形で助け合ってやってきたのに、明治以降は国家神道となり、他の宗教は弾圧されました。
天皇を「現人神」にし、仏教に対しては『廃仏毀釈』と言って仏を廃し、お寺や仏像を打ち壊し始めました。仏を軽んじたことが、やはり第二次世界大戦の敗戦のもとになったと言われています。
また、日本国憲法は「信教の自由」を認めながらも、「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動をしてはならない」と規定し政教分離がかなり悪い方向に解釈されたと思われます。宗教が悪者のように扱われ、受け取られる傾向が強まってしまいました。
政教分離の趣旨は、「人々を統制する道具として宗教を用いてはならない」ということです。「統制する道具」として宗教を使ってはいけないということが、政教分離の意味であり、宗教は悪いものだから公的な場から締め出すとう解釈は間違いであると指摘されています。

単純に宗教だから悪と考える人たちは思考が停止し、物事の価値判断、善悪を分けることができない人たちであると思うので、真理を知った人たちはやはり言葉を武器として言うべきことはいい、宗教が尊敬される国家創りをめざして汗を流すことが大事であると思います。


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posted by ガンちゃん at 23:04 | Comment(0) | 政治・経済 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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