私たちが肉体をもって生存している3次元物質世界は、私たちの精神といいますか、思考とは独立して物質の法則が働いています。
例えば、地上的にどのような悪人と言われようと、反対に善人と言われる人にも同じように太陽の光は平等に降り注ぎます。
精神的に貧困の人にも、精神的な豊かさを持つ人にも、雨は平等に降り注ぎます。
つまり、物理的な法則は、私たちの精神性や心の在り方に関係なく同じように働くということです。
ところが、霊的世界になりますと物質世界とは全く違う形で法則が働きだします。
自分自身の精神性が同時に物理的法則として働きだします。
心が阿修羅のごとく闘争と破壊の気持ちでしたら、その心の映像が反射され自分に跳ね返ってきます。
心で思う、その景色が物理的実体として展開されていきます。
ですから、霊的世界に参入しようとする修行者は、正直である必要があると思えます。
誰でも嘘はついたことがあるでしょう。おそらく嘘をついたことがない人は、いないと思います。
しかし、確信犯的に嘘をつき、相手を貶めようとする、あるいは根拠のない悪口をいい相手を傷つけようとする行為は、かならず物理的力を伴って、あるいは反作用として自分に跳ね返ってくるでしょう。
地上的には直接的に反作用がすぐには帰ってこないかもしれませんが、霊的世界においては、その醜い邪心に満ちた心が力学的に働いてくるでしょう。
「死」というものを境に、精神的法則と物理的法則が一体となり、自分の心という映写機から放たれる映像が、物理的実体となって現実化してきます。
地上の年齢に関係なく、魂が幼い人は、人とは違う霊的な現象を経験したりすると、すぐに慢心し、自分を高次な存在、あるいは神だと勘違いして自惚れます。
知性、理性が弱いと霊的現象を単純にありがたがり、自分と他の人とは違うという気持ちが慢心を生み、自分が偉くなったと勝手に思い込んで、人を見下した話し方をします。
正義とは、悪をおしとどめ善をおし進めることです。
正義とは、それ以外にいろんな説明の仕方もあるでしょう。
しかし、客観的にみて明らかに、その人が自惚れ慢心し、間違った内容をあたかも真理であるかのように上から目線で話す人を許すわけにはいきません。
善悪の価値基準を霊的能力に置き換えたり、波長同通の法則を勝手な解釈をしたり、妄想と瞑想の区別がつかない人は、やはり注意してあげることが愛であり正義であると考えます。
もちろん私自身も、よく間違えますから、批判は受けたりしますが、自分自身の感情で批判しないように自己チェックしていきたいと思います。
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