2016年01月24日

霊界と哲学の議論

霊界と哲学の議論

『視霊者の夢』という本を題材にしてスウェーデンボルグに対してカントがどのように考えていたのかを観察しながら、現代に関しても霊的世界を認識できない、あるいは客観的ではないので学問的対象から除外する、証拠がないという理由で霊界を否定する人達に対して、霊的世界や魂の本質を伝えるきっかけがつかめればと考え、わかる範囲で考察してみます。

カントやスウェーデンボルグ以外にも歴史上、思想的な対決がありました。ソクラテスとソフィストたち、ヘーゲルとショーペンハウアーなど、思想的対立は必然的に発生します。

スウェーデンボルグは数学や鉱物学を学びスウェーデン国の鉱山局の技師をつとめ、その後、数十年にわたって貴族院議員として政界で活動しました。その一方、科学者、発明家としても大きな業績を残した方です。

1766年カントは、『視霊者の夢』を刊行し、スウェーデンボルグとの対決する姿勢を明らかにしました。
カントの結論は、人間は霊魂や霊界との交流に関する空想、夢想を退け、むしろ現実の生活にまじめに取り組むべきだという結論に至りました。
『視霊者の夢』の末尾には、「…あの世におけるわれわれの運命は、おそらくわれわれがこの世におけるおのれの立場を、いかにたもっていくかということにかかっているらしく思われることからしても・・・・多くの無駄な学問論争のあと最後に言わせた『われわれはおのれの幸福の心配をしよう。庭に行って働こうではないか』という言葉をもって閉じることにある」と述べています。

たしかに『純粋理性批判』を書いたカントの立場からすれば、霊魂や霊的世界のように、経験をこえたことに関して認めてしまうことじたい、カント哲学の崩壊を意味することになるかもしれません。

カントは、感性による直観によって対象を観察し、人間精神に宿る概念によって対象を照らすことで認識することができる。カントの概念は対象を認識するための枠組み、あるいは思考するための規定であり、まず経験がなければ概念で対象を認識することができないと考えたのではないかと思います。

また、カントのいう概念によって認識できるものとは、現象として現れた部分のみ、感覚器官により経験で確認できる範囲のものに限定されています。

つまりものの本質ではなく、あくまでも五感を通して確認できる本質の一部、現象部分のみである。と『純粋理性批判』では、いわれていたと思います。

つまり、霊的世界に関しては経験をこえたところにあり、概念で照らす以前の話になるので、物事を認識することができないという結論になるため、100%信じるというところまではいけなかったのかなと思われます。
かといって全面否定はしていないようです。文書にこのようなことが書かれている箇所がありました。
「わたしとしては、この世に非物質的存在があると主張し、わたしの魂もこうした存在のクラスに入れておきたいという気持ちになっている」と述べています。

霊的存在や魂は、理論からすると矛盾するような気もしますが、全否定はしていないで認めていた部分もあるということだと思います。

しかし反面では、「将来人々は、たしかに霊について、いろいろと考えはするであろうが、もはや多くを知ることはできないだろといっておきたい。」とも述べています。

しかし、カントの哲学を理由に、霊的存在を否定するということは、「キリスト教」「仏教」「イスラム教」を否定していることになります。

唯物論的考え方は、現在でも過去の歴史の中でもある考え方ではありますが、真実は一つであり、霊的世界が本来の世界であることは、必ず証明されると確信しています。現代はそのような時代です。

更にカントは言います。
「重要なのは常に道徳性である。これこそわれわれが護持せねばならぬ聖なるもの、侵しがたいものであり、さらにこれこそすべてのわれわれの思弁と探求の基礎であり目的である」と述べています。

この点は難しい議論でありますが、仏教で説かれているように人間の感覚器官は不完全なものであり、五感とその対象、その関係の認識によって人間は自分自身や世界観を構築しています。感覚器官が不完全なものである以上、霊的存在が経験的に見ることができなくとも否定する根拠にはならないと思います。
スウェーデンボルグは「全人類はひとしく霊界と密接に結びついているが、ただ彼らはあまりにも粗雑であるために感じないということだ」とのべたうえで、「人間の記憶を内的記憶と外的記憶にわけ、外的記憶をこの世のもの、内的記憶をあの世のもとする。この内的記憶のなかに、外的記憶から消滅したものがすべて保存されている。死後、かつてその人間の魂のなかに去来したものすべてが、すなわち,おかした罪やなされた美徳のすべての完全な追想が出現する」
今回の自分の人生を振り返り、反省の機会を与えられる、ということでしょう。

ルドルフ・シュタイナーは、人間の地上での記憶は死後、忘れ去られていくが、経験を通して得られた力や、精神性などは魂の記憶として来世に持っていくことができると書かれていたと思います。
この意味は、魂に刻み込まれた傾向性は、来世にも通用しますということでしょう。

経験論ですと、今世、地上で学んだことがすべてということになると思いますが、霊的世界を含めて人生を考察すると、より深い人生観になるのは、必然的です。

最後にカントは言います。「肉体的存在はけっしておのれの自存性をもっているわけでなく、ひたすら霊界によってなりたっているとのスウェーデンボルグの考えに同調している。物質的事物の認識は2種類の意味をもっている。一方は、物質相互の関係における外的意味であり、他方は、原因である霊界の作用として物質的事物が表わされる場合の内的意味である。この内的意味は、人間には知られていない。そこで、スウェーデンボルグはこれを人間に知らせねばならなかった。この点におのれの使命があると彼は思っていた。」

つまり、カントとスウェーデンボルグは、役割がちがっていただけであり、平面的に見ると対立していると思えますが、弁証法的に統合していく観点が必要であると思います。



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posted by ガンちゃん at 01:02 | Comment(0) | 哲学的認識論 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

キリスト教精神と道徳律

キリスト教精神と道徳律

モーゼの十戒には、「人を殺すなかれ」とあります。仏教でも不殺生、殺生戒、人を殺してはいけないと教えています。
例えば、「人を殺してはいけない」という立法の命令は、カント的には、『普遍的立法の原理として妥当しうる原則』『いかなる理性的存在者の意思にも妥当するものと認められる原則』とされると思いますが、
イエス様は、このような命令に対して和解(愛の一様態)という一層高次の精神を対置させています。

ヘーゲルは、「それは、律法で戒めている行為をしないというだけでなく、むしろ、かの律法を不要と化すものであり、それによって律法のような貧しいものはもはや存在しなくなるほどに、はるかに豊かな生き生きとした充実をそのうちに宿すものなのです。と述べています。

これは、法律によって人々を規制しなくても、自分自身の思いと行動を自分自身で統御できる、あるいは、普通の生活をするなかで、法律がなくても法律を破るような生き方をしない、そのような生き方が、イエス様がいわれる愛の中に含まれる意味の一つであると思います。

「愛にあって義務観念はすべて消えうせる」という言葉もあります。

マタイ福音書のなかでイエス様は「あなたは祈る時、自分の部屋にはいり、戸を閉じて、隠れたところにおいでになるあなたの父に祈りなさい」と言われています。
イエス様は、祈りや断食にあたっては人前でそれを見せつけるような虚飾的な行為を批判しています。
とくに祈りに関しては、いかにも私は神を信心し、義務を守りそれを実行しているかのようにとり繕う言葉を戒めています。これは本心と行動が一致しない偽善者に対しての忠告だと思いますが、人間の本質が心であることを考えると、見せかけの行動や、心がともなっていない言葉などはすべて、霊的価値基準からみてマイナスということになります。

しかし自分自身の経験上、心の中で思い続けていること、思考内容はどんなにとり繕っても言葉に出てくると考えています。とくにインターネットですと、相手の顔が見えず直接会って話すわけではないので、その人の言葉(文章)の表現がその人の思いをある程度ストレートにあらわしているように考えるようになりました。
ネットはアクセスすると、家に居ながらどこにでもつながり、時間と空間の制約を受けません。時間・空間の制限をうけないという点で、霊界と非常に似ていると思います。
霊界に似ている分、その人の本性がでてきやすいと思えます。
イエス様も、「木がよければ、その実も良いとし、木が悪ければ、その実も悪いとせよ。木はその実でわかるからである。どうして良いことを語ることができようか。
おおよそ、心からあふれることを、口が語るものである」と言われています。

また、ハムラビ法典には「目には目を、歯には歯を」という律法があります。つまり報復です。この報いの平等ということは、一切の正義の聖なる原理であり、すべての国憲の基づくべき権利です。
しかし、イエス様はこの一切の権利をすべて放棄することを要求し、このような正義、不正義の領域全体を愛によって乗り越えることを要求しています。
個人や国にしてもお互いに、自分自身を正義と考え、相手を悪という位置付けでとらえますが、イエス様は、正義・不正義という対立を愛によって乗り越えることを要求しているのかもしれません。
しかし、これは善悪の価値判断がつけられないということではありません。
善と悪があるのは知ってはいますが、それを愛によってのりこえ、より以上に高まることを要求しています。



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posted by ガンちゃん at 00:37 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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