2015年07月12日

【再掲】キリスト教に関する考察 過去記事 再編集

キリスト教に関する考察 過去記事 再編集

あらためて聖書の福音書を読み返してみますと、また違った視点で感じるものがあります。
当時は、意味がよく理解できなかった内容で以下のような教えがあります。
『もし、誰かが、あなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には上着を与えなさい』と言う内容がありますが、どのように理解すれば良いのか、わかりません。
もしかしたら、キリスト教的な無我の教えなのかもしれません。怒りや欲望に対して、無我の気持ちで接しなさい。という教えなのかもしれません。
また、『敵を愛し、迫害するもののために祈れ』と言う教えがあるにもかかわらず、なぜ他の国に対して、侵略したりするのか不思議でありました。今にして思えば、新約聖書を読んでいないのか、ユダヤ教の教えの部分を取り出してそのような行為に及んだのか…いずれにしてもイエス様の教えではないことは確かでしょう。また、『あなたは祈る時、自分の部屋に入り、戸を閉じて、隠れた所においでになる、あなたの父に祈りなさい』とあります。
これは、現代にあてはめて考えれば、自分は誰よりも信仰心があつく、”主”を信じ、セミナーにも参加して、誰よりも悟りが進んで自分の境地は菩薩ですと、周りの人にアピールする会員で、そのような自我の気持ちあるいは奪う愛の気持ちではいけないという教えではないかと思います。

また、『目は体の明かりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいであろう』とありますが、心の清らかさや、精神性の高さや悟りの内容によって、永年の魂の傾向性が外見に現われるということでしょう。
一番、身体の中で心の状態が反映されるのが目と言うことでしょうから、ある程度、相手を外見で判断するとしたら目を見るのも一つの方法なのでしょう。

キリスト教の教えとHSの共通する教えの部分を、自分の視点でいくつかまとめていきます。

『人を裁くな。自分が裁かれないためである。あなた方の、裁くその裁きで自分も裁かれ、あなた方の量るそのはかりで、自分にもはかり与えられるであろう』とありますが、この教えは仏教の縁起の理法や、因果律、因果関係をあらわした言葉であり、正しい宗教に共通する黄金律であると思います。
自分が人を裁くほど立派な人間かどうか、まず自分自身を振り返って自分を律しなさい。と言う意味に理解しています。
ただし、明らかに相手が、間違った行動や言葉、周りに対して悪い影響を与えている場合は、その間違った視点を正すことは大事なことで、相手に悪を犯させないと言う意味で注意は必要だと思います。

『求めよ、そうすれば与えられるであろう。捜せ、そうすれば、見出すであろう。〜』とありますが、当然、求めよと言われても、それは自分の欲望のみを満たすためだけに求めても、与えられないと思いますし、自分の魂が堕落していく方向で求めてはいけないということは、言うまでもありません。

同時に、「人々にしてほしいと望むことは、人々にもそのようにせよ。」と言うことで、仮に正しい価値基準と言うものが、わからなかったとしても、自分が喜ぶことは、他人も喜んでもらえるだろうということが前提にあると思います。

『狭き門からはいれ、滅びにいたる門は大きく、その道は広い。そして、そこから入って行く者は多い。命にいたる門は狭く、その道は細い。そして、それを見いだす者が少ない。』とあります。
これは修行の厳しさを表した言葉だと思いますが、人生が魂の向上を目指し、周りの人に対して良い影響をあたえ、神の国をつくる目的であるならば、常楽我淨と言われる、四顚倒という四つの間違った考え方、これを否定しなければなりません。この世での人生が常にずっと続く、この世は楽しい、快楽がある。肉体の自分が真実の我と思う。浄らかである、という考えはすべて間違えであるとおそわっています。真実は霊主肉従であり、肉体に宿っている霊的存在が真実の自分であり、肉体は仮のものであり霊的存在が地上で修行するための乗り物であるという認識が大事であろうと思います。
だから肉体のみを喜ばす方向は滅びに至る門で、その門を通るものは多いということを、言われているのではないかと思います。

『あなた方は、私の名のゆえにすべての人に憎まれるであろう。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる』これは、信仰心の大切さを教えていると思います。信仰心を持って一生を生きるとき、この世的な価値観と相当対立するであろうし、いろんな事件が起きて、信仰が揺れるときがあると思いますが、最後まで主を信じて教えを守ることが大事であるという信念が大切だと思います。

また、『一匹の羊を持っている人がいて、もしそれが安息日に穴に落ちたら、手をかけて引き上げてやらないであろうか。人は羊よりもはるかに優れているではないか。だから、安息日に良いことをすることは、正しいのである。』これは、
律法や戒律など形式的に決められた内容に縛られるのではなく、状況に合わせて物事の価値判断ができなければいけないと考えます。
たとえば、憲法9条は平和のための内容で、これさえ守れば日本は戦争をしないで平和な暮らしができる。と思っている短絡的人間がいるようですが、現代であれば、近くに北朝鮮や、中国が軍事力を強化して覇権主義をとっているのに、日本は武器を持ってはいけないと左翼系の人が真面目に考えているとしたら、世界的な常識を持っているとは思えません。
国防は国が果たす役割のなかでも最重要課題であります。

イエスさまのお考えが、私のような未熟者に分かるわけがありませんが、今述べた点ではHSの教えと重なる部分が相当あり、普遍性があるがゆえに、世界宗教として西洋文明に深い影響を与えていると考えます。

ルカによる福音書の記述に次のような例え話がある。
『盲人は盲人の手引きができようか。二人とも、穴に落ち込まないであろうか。
弟子はその師以上のものでないが、修行をつめば、みな、その師のようになろう』とありますがこれは、HSの愛の発展段階説の生かす愛、6次元的愛に対応するのではないでしょうか。
まず、自分自身の自己確立をなし、それから多くの人を真理の道に誘う。
つまり、勉強を教えることができるのは、勉強をした人であって、勉強をしない、なまけ者は人を導くことができない。これを盲人の例えで、説明していると思います。

次に、以下の話があります。
『汝の敵を愛し、迫害するものの為に祈れ。〜天の父は、悪い者の上にも、良い者の上にも太陽を昇らせ、正しい者にも、正しくない者にも、雨を降らして下さるからである。』とありますが、これは、愛の発展段階説で言うと、許す愛(7次元的な愛)に通じるのではないかと思います。
通常の常識からすれば、自分に対しての敵と思える人物を、愛し、その人のために祈りを捧げると言うことは、努力しても簡単にできる内容ではありません。
これは明らかにプロとしての修行課題であり、一般の群衆にできる内容の教えではないと思いますが、敵を愛する、許しなさいと言うことは宗教的な愛であり、天使の愛であると考えます。

もちろん、行為としての悪は正義と言う観点で正していくべきでありますが、敵を愛すると言うことは、広い意味で、自分に直接関係ない人をも愛しなさいと理解できますので、菩薩の愛であると思います。

次に律法学者が来て、イエス様に質問しました。全ての戒めの中で、どれが第一のものですか。という問いに、『心をつくし、精神をつくし、思いをつくし、力をつくして、主なるあなたの神を愛せよ。
第二に、自分を愛するように隣人を愛せよ。』とあります。
この第二の、自分を愛するように隣人を愛せよとは、当然自分が関心を持ってしかるべき人で、愛の発展段階説でいえば、5次元的な愛する愛に通じる教えであると考えます。

このように、福音書の中には、許す愛、生かす愛、愛する愛が説かれているのであります。
もちろん体系的に説かれているわけではありませんが、それは時代的な制約があるので仕方がありません。
これだけでも、主エルカンターレの慈悲や愛の思想がイエス様を通して西洋文明に2千年間生き続けているのであろうと思われます

また、次のような例えがあります。
要約すると、新しいぶどう酒は新しい皮袋に入れるべきである。という教えがある。
これは、今までのしきたりや、考え方及び、古い律法や戒律、習慣や時代性にとらわれて、新しく説かれる教えを批判してはいけない。と言う意味で理解できると思います。
現代に当てはめれば、唯物論や間違った教育によって、ゆがめられた考え方や、見方によってHSで説かれる法を価値判断してはいけない。と、とらえるべきであります。


また、以下の例えがある。
『善人は良い心の倉から、良いものを取り出し、悪人は、悪い蔵から悪いものを取り出す。
心からあふれ出ることを、口が語るのである。』
これは、釈迦の八正道の正思と正語に対応していると思います。
心の三毒を反省して、初めて正しい、適切な言葉を言うことができるのであって、心が欲望で真っ黒で、言葉だけをうまい言い回しをしても、人に見抜かれてしまいます。
逆に言葉が悪ければ、心の方にも問題があると考えられるのであります。
このように、仏教やHSの法とキリスト教の共通点を見出してきましたが、やはり共通して言えることは”愛”や”慈悲”が真実の宗教にとってきわめて大切なのだと思います。



ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 10:41 | Comment(0) | 宗教・思想について | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

【再掲】龍樹の空とアウグスティヌスの時間 慈悲との関係

龍樹の空とアウグスティヌスの時間 慈悲との関係

龍樹は紀元2世紀頃、インドに出て大乗仏教の中興の祖と言われ、さまざまな宗派の宗祖になったという意味で八宗の祖とも言われています。
龍樹の空の思想とは、この地上において本当の意味で実在するものは何も存在しません。あらゆるものは見せかけだけの現象にすぎません。つまり、いかなるものであってもその本質を欠いているということです。
あらゆる事物は、他のあらゆる事物に条件づけられて起こってきます。空とはけっして無ではなく、断滅でもありません。肯定と否定をこえたものであり、「有」と「無」をこえたものでもあります。
ですので、空とはあらゆる事物の依存関係にほかなりません。すべてのものは相依って成立しています。
例えば、ある物を「長い」といいます。「長い」というのは、「短い」という観念に依存して成立しています。逆に、「短い」という観念は「長い」という観念に依存して成立しています。
「清らか」という価値表示的観念は「不浄」という同じく価値表示的観念に相互依存しています。
いろんなものが相互依存、相互限定して成立しています。これは縁起とも言います。いかなる存在であっても、孤立したものではありえません。
龍樹の思想の根本は空の思想です。龍樹の多くの著書の中で有名なのは『中論』だと思いますが、中論の『中』とは正しさという意味であり、中道のことだと理解しています。二つの対立した極端がある時に、そのどちらでもないということです。固定的な観念はすべて否定しています。

龍樹は次のように述べています。
「去るはたらきなるものが、即ち去る主体であるというのは正しくない。また、去る主体が去るはたらきからも異なっているというのも正しくない。」
一般的に、ものが去っていく場合<去る主体>があり、それと<去るはたらき>が同時にあると考えます。しかし、<去る主体>と<去るはたらき>が同一のものであるなら、2つの言葉があるわけがありません。また、<去る主体>と<去るはたらき>両者が別のものであるならば、この二つはどうして結びつくのか?だから<去る主体>と<去るはたらき>は別のものと考えても、同一のものと考えても<去るはたらき>は成立しないと述べています。

また、いったい<去る>というのは、いつのことなのだ?すでに去ったものは過去にあるわけで、また、いまだ去らないものは、未来に属します。だから、それは去らない。また、<現在去りつつあるもの>が<去る>と言えるかもしれませんが、<現在去りつつあるもの>をつきつめて考えてみますと、過去か未来のどちらかに入ってしまいます。故に、<いま現在去りつつあるものが去る>ということは有り得ないということです。

これはキリスト教父アウグスティヌスの時間論に近い考え方でないかと思います。
アウグスティヌスは『告白』の中で次のように述べられています。
「もし時間が恒常であるならば、それは時間ではないであろう。なにものも過ぎ去るものがなければ過去という時間は存在せず、また、なにものも到来するものがなければ、未来という時間は存在せず、なにものも存在するものがなければ、現在も存在しないであろう。過去はもはや存在せず、未来もまだ存在しないのであるから、どのように存在するのか?また現在もつねに、現在であって過去に移り変わっていかなければ、それは時間ではなく、永遠であろう。現在はただ、過去に移り変わることによってのみ時間であるならば、すなわち時間はそれが、存在しなくなるということによってのみ存在するといって間違いないであろう。時間は過ぎ去っているとき知覚され測られているが、しかし過ぎ去ってしまったら存在しないので知覚することができない。過去、現在、未来とは心の中に存在し、心以外にそれを認めないのである。すなわち過去のものは現在の記憶であり、現在のものは現在の直覚であり、未来のものは現在の期待である。私は時間を測ることを知っている。しかし私は未来を測るわけではない。未来はまだ存在しないからである。また現在を測るわけでもない。現在はどんな長さにも広がりを持たないからである。また過去を測るわけでもない。過去は、存在しないからである。それでは何を測るのか?現に過ぎ去っている時間を測るのであって、過ぎ去った時間を測るのではない。」

一つの実体があって、それがいつまでもの続いているものではなく、因縁によってつくられたものです。また、因縁が去れば消えるということ、それが空ということです。つまり、空と縁起は同じ趣意になると思います。

また、空を体得した人は、生命力と力に満たされて、いっさいの生きとし生けるものにたいする慈悲をいだくことになるといわれています。悟りの挑戦 参照
我と汝が相対しています。そこに隔たりがある限り、我と汝の対立はいつまでも続いていくでしょう。しかし、すべてのものは過ぎ去って行くという空の境地に立って、自分の身を相手の立場に置き換えて考えてみますと、そこから本当の意味での愛が成立します。愛とは仏教的には慈悲に相当します。
また、感覚的なものは、すべて過ぎ去っていくものであり本質ではありませんが、人間の魂の核の部分は仏性、神性が宿っています。すべての現象を過ぎ去っていく空としてみながら、仏性を本質として見た時に、自他はこれ別個に非ず一体なりという考えになり、そこに他人も自分も独立した関係ではなく、すべてはつながっているという、慈悲の気持ちがおきてくるのではないかと思います。

また、大乗仏典・大智度論 中央公論社には次のように書かれています。
「例えば、「薬」と呼ばれるものは、それが効く病気との関係の中で薬として存在するのであって、それ自体の本来的な性質において「薬」として存在しているわけではないのであると書かれています。」

風をひいて頭が痛いのに、頭に傷薬をぬっても薬としての効果は期待できません。

「仏の教えの中で、貪欲・瞋恚・愚痴という、人々の心の病を治療することについて語られる場合にも同様なことがいえます。
身体を不浄であると観察すること(不浄観)は、貪欲という病に対しては適当な対症的治療法と呼ぶことができますが、瞋恚という病に対しては適当なものということができず、対症的治療法ではありません。なぜなら、身体のうちに諸々の欠陥があることを観察するというのが不浄観なのであり、
もし、瞋恚という病におかされている人が自分の身体に諸々の欠陥があることを観察したならば、ますます瞋恚の炎が燃え上がることになるからです。
また、慈悲の心を思い起こすことは、瞋恚という病に対しては適当な対症的治療法ということができるけれども、貪欲という病に対して適当なものということはできず、対症的治療法ではありません。
なぜなら、慈悲の心というのは、人々の内にある好ましいことを見つけ出して、その長所を観察することでありますが、もし貪欲の病におかされている人が、他人のうちに好ましいことを見出してその長所を観察するならば、きっとますます貪欲になるからです。
また、物事はすべて原因や条件から成り立っていると観察すること(因縁観)は、愚痴という病に対しては、適当な対症的治療法ということができますが、貪欲や瞋恚といった病に対しては適当なものとはいえず、対症的治療法とはいえません。
なぜなら、まず、はじめに誤った観察(邪観)があり、この誤った観察から誤った考え(邪見)が生じてくるからであります。そして誤った考えというのは愚痴(おろかさ)に他ならないからであります。」

相手に合わせて対機説法ができるということは、相手の立場に立った、慈悲の現れの一つであると考えます。




ぜひポチッとクリックしてね!応援よろしくお願いします。
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へにほんブログ村 哲学・思想ブログ 幸福の科学へ
にほんブログ村 にほんブログ村 幸福の科学 ブログパーツ
posted by ガンちゃん at 10:35 | Comment(0) | HS/ガンちゃんの感想・考察 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

広告


この広告は60日以上更新がないブログに表示がされております。

以下のいずれかの方法で非表示にすることが可能です。

・記事の投稿、編集をおこなう
・マイブログの【設定】 > 【広告設定】 より、「60日間更新が無い場合」 の 「広告を表示しない」にチェックを入れて保存する。